※
風のない空には灰色の細雨があった。無数の糸が絡み合うように降ってくる。4月だというのに、陽の当たらない裏の路地は雪でところどころに汚れ、残雪がコチコチになって固くへばりついている。リクミはその一角をつま先で崩した。「ごめんね」と言われて、牧野さんとは出口で別れた。なんだか、つまらない思いだった。昼休みに、「まだ読み終わってないけど、気分じゃないから貸してあげる」と牧野さんから本を渡された。かねてよりファンだと公言していた宮部みゆきの本だった。なにもかもが、らしくない、収まりのつかない気持ちになって、リクミは仕事が終わる頃には自棄なささくれた気分で牧野を見送った。それから、会社帰りに缶ビールを買うと、暗くなって誰もいない裏道を選び、小さな白いビニール袋から缶を半分だけ出して飲んだ。そんな習慣も結婚してからは廃れていたので、酔いながらひとり歩くのは、どこか懐かしい思い出をたどるようで面白かった。人の目を気にしながら、酔って気の大きくなったリクミは、携帯を取り出すと、すこし逡巡したあと短縮番号を押した。元ダンの声が2コール半で耳に届き、戸惑いながら言葉を探す。長い呼び出し音が、ひんやりした板廊下の奥のほうまで響いて、引き返せないほど遠くに来てしまったことを後悔する、そんな気がしていたのに。
「あたし」
しばらく連続した咳き込みが聞こえて、聞き慣れた声がした。
「おまえか」
たくさん心配な思いをさせてきたことを今さら切実に悔いる。
「おまえかはないでしょ。別れたらすぐ知らない人なの?」
「なんか呂律回ってないぞ」
「え」
「酔った勢いで電話すんな」
思った通りには進まない。
「ま、そろそろおまえから電話くるかなとは思ってたけど」
「なにそれ」
「ひとりでてんてこ舞いしてるのか。ひとりでいろんなところにぶつかって」
「電話するんじゃなかった。切るからね」
「勝手だな」
「勝手でいいから」こんな強がりのために声が聞きたくなったわけじゃない。
「俺はおまえを励まさないぞ。だけどな、いつでも寂しくなったら電話してこい。俺でよかったら、いつでもおまえのことわかってやるつもりだから。そんだけ。じゃあな」
電話は切れていた。リクミは缶に残った生温い液体をすすって、近くのごみ箱に空き缶を捨てた。向こうには誰もいない公園がまばらな街灯に照らされていた。ベンチがないかと思って園内に入ろうとしたところで、見知らぬ親子から声をかけられた。
「あの、すみません。コミュニティセンターに行きたいのですが」
高齢のお婆さんが、9才ぐらいの女の子の手を引いている。