小説

『しゅう末より』高橋己詩【「20」にまつわる物語】

 世界がおわると、同時にこの落花生もおわるのだろうか。食べながらしつこく考えていた。食べおわるまではせめて考えていようと思ったのだが、僕がもらった落花生は数が多すぎた。まだまだ食べ終わりそうにない。
 世界がおわってしまうからかもしれないが、僕は、あの二人を見ていることが、とても幸せなことなのだと感じた。世界がおわっても二人はおわっていないかもしれない。二人の愛は永遠、だとかそんな古臭いドラマ、あるいは下らない今日日の恋愛小説のようなことを言いたいのではなく、そのままの意味だ。
 落花生の味は懐かしい。僕は南房総出身だから。落花生は故郷の味だった。ただ、僕の出身地なんて、それは世界のおわりよりも瑣末なことだ。だから二人にはまだ明かしていない。

 世界のおわりがまだ持て囃されている頃のこと。僕は、明男と表参道の駅で偶然顔を合わせた。彼は皺一つないスーツを纏っていたから、四月だったはずだ。彼は春になるとスーツを新調する。気合が入り、仕事がよく捗るのだそうだ。ちなみに僕はほとんど新調しないが、彼の上司である。スーツを替えなくても、仕事を捗らせる術はいくらでも見つけることができる。
 駅のホームで、僕らはこんな会話を交わした。
「世界がおわるとき、人間はどんな反応すると思う」と明男。
「知らないよ」と僕。
「敢えて言うとしたら、だ」
「そうだな。普通にしてるのかもね。騒いだり、泣いたりはしなくて、映画っぽくない感じ」
「へえ。そういえばお前さ、映画を撮りたいって言ってなかったか」
 それなら良い知り合いを紹介するよ、と明男は二の句を継いだ。だが僕には、映画を撮りたいと言った覚えがない。
 言った覚えはないが、思っている自覚はある。僕の近くで起きていることや、遠くで起きていること。それらを何かしらの方法で、作品として残したいという願望は常に持っていた。その方法の一つとして、映画は最適のような気はしていた。
「映画ね。撮りたいかも」
 文章や絵や音楽。どんな媒体であろうと、その価値に差はない。ただ間違いなく、文章よりは映像が良い。文章というのは、文章でしか作品を残せなかった時代に培われた技法であり、視覚や聴覚でも訴えかけのできる映像には、間違いなく劣る。
 だから僕は映画を撮りたい。別段才能があるわけでも、今あるだけの能力を求められているわけでも、義務感があるわけでも、作品つくりへの明確なヴィジョンがあるわけでもなく、はっきりとした目的があるわけでもない。ただ、頭の中で繰り返し描写はしてきた。そうこうしているうちに、20が二つ並ぶ年のある日、今日、世界のおわりを迎えた。それはあまりにもあっけなくて、自然で、どうしようもない。そして世界が今おわった。それでもほら、何も変わらない。人間は人間のまま。世界がおわっても、人間は生きている。そして僕はこれから明男に会いにいく。結局二人もそのまま存在しているのだろうし、世界がおわったことに気がついてもいないはずだ。世界が何億年、あるいは何兆年も前から始まり、短い歴史に今日幕を降ろした。それでも何も変わらず、今日が続く。時間が経過する。僕らが生きる。
 それをこうして文章に残せたことは、とても幸運なことだ。
 だってこれは、文章でしか残せないことなのだから。

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