小説

『過ぎし日の想い』紫水晶【「20」にまつわる物語】

 重い足取りを少しでも軽くしようと、私は身体中の空気を一気に吐き出した。
 私立夢ケ丘保育園ばら組。ここが、今の私の勤務先だ。
「先生おはようございます。皆さんおはようございます」
 まるで録音された音源のように、毎日決まって繰り返される言葉のやりとり。これが挨拶と呼べるものなのか、疑問を抱いたのは二年前。郷に入ればなんとやらである。そんな事にいちいち頭を悩ませている余裕はない。
「今日は、みんなでお絵描きしましょう」
「ええーっ。つまんねー」
 また始まった。コウのヤジ。コウは、我がクラスのリーダーだ。彼が発する一言は、総理大臣よりも効力がある。
「ひまわり組は園庭で遊んでるよ」
「ええーっ! ずるーい!」
「ずーるーい! ずーるーい!」
「いい加減にしなさい! どうして先生の言う事聞けないのっ! そんなに遊びたかったら、ひまわり組になりなさいっ!」
……またやってしまった。
 結局いつもこうだ。思い通りにならない子どもたち。それを恫喝して力で抑えようとする未熟な保育士。
 わかっている。わかっているのだ。
 辞めよう。あと少しの辛抱だ。この子たちが卒園したら……。
 涙が溢れないように奥歯をきつく噛み締めると、刺すような視線の中、私は画用紙を配り始めた。

「瑠璃先生、ちょっといいですか?」
 休憩に入ろうとしたところ、突然園長先生に呼び止められ、私は条件反射で身体を強張らせた。午前中の恫喝が事務室まで聞こえたのだろうか。「はい」私は、恐る恐る、園長先生に向き直った。
「実はね、一時預かりの申し込みがあるんだけど、その子、年長さんなのよね」
「え?」
「で、悪いんだけど二週間ほどお願いできないかしら」
 つまりこれは、お願いと言う名の命令だ。打診イコール決定なのだ。私に拒否権など存在しない。
「ほら、彼女が入るとちょうど二十人。キリもいいしね」
 説得力のかけらもない。
「それにね、ルリちゃんって言うのよ、その子。これも何かの縁じゃないかと思うのよ。ね、瑠璃先生」

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