小説

『しゅう末より』高橋己詩【「20」にまつわる物語】

 当初は某国の大統領のたくらみを隠蔽するためだとか、相撲界の失態を隠蔽するためだとか、結局はいつものようにマスメディアの企てだと誰もが口にし、文字にした。
 だけれども、2020という数字が、不穏な空気を漂わせていた。20が二つ並ぶことへの特別な雰囲気、意味深さ、そして不吉さ。それらが妙に説得力を伴っていたのかもしれない。

 予見された世界のおわりは、瞬く間に人類の共通認識となっていった。流行に疎い僕が認識するまでには時間がかかったようだけれども。会社の朝礼で課長代理が周知し、そこで初めて知ったのだった。
 人類はどうすべきか、どうあるべきか。誰もが理想や願望を述べて、それらの具現化を試みた。やはり人類の延命や世界平和が、その代表的な例だっただろうか。これを論ずる政治家や批評家たちが多いのは案の定だったけれど、世界の平和なんていうものは、世界がおわろうと始まろうとどうにもならない。
 世界のおわりに対する認識が飽和していた頃には、誰一人として平和という単語を使わなくなっていた。皮肉なことかもしれないが、それはそれで平和なんだと思う。
 世界のおわりを間近に控えた人類は、それぞれに理想論を抱いた後、手の届くような願望を抱き、実現するようになった。好きなものを好きなだけ食べる、雑貨及び服飾品ショップめぐり、本読む、小説書く、そんなところだ。
 明男と明子にとっては、それが結婚だっただけのことだ。食事や読書ほどに、何も難しいことはない。
 結婚生活は突如始まった。しかしそれは、二人にとって大きな変化をもたらさなかったようだ。明男はこれまで通り僕よりも仕事ができず、明子は相変わらず所持金の使い方が荒かった。世界のおわりや結婚だけをきっかけに、人間の性格が変わることは、まずないのだろう。人間の内面というのは、それほど頑なにできているものなのだ。
 ただしこれは、この二人に限ったことではない。たった一つの事象をきっかけに、誰の生活も変化することはなく、価値観も変わらない。
 仕事に行って、疲れて、気だるさを翌日に持ち越す。
 労働を前提として、一生懸命に生活をする。
 厳しい制約の中、その許容範囲を活用して趣味を楽しむ。
 余裕があれば誰かと、もしくは一人で笑う。

 そこに世界のおわりは、自然と近づいてくる。ただそれだけのことだ。東京オリンピックの前に世界はおわるのか、東京オリンピックをきっかけに世界はおわるのか。

「なあ、どうして皆は世界がおわることを知ってるんだよ」

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