小説

『あるふぁべっと』もりまりこ【「20」にまつわる物語】

 Tはなにかを思い出そうとするとき、なぜかでんぐり返りをする。そうすると、頭の中がしぇいくされてなにかを思い出しそうになるその感覚が好きなのだという。
 パパもでんぐりがえり。
 俺は促されていることを知って、狭いリビングの床をでんぐり返りする。久しぶりにしてみると、この天地がひっくり返った感じが懐かしいことに加えておそろしく体が堅くなっていたのだと気づかされた。パンダはえらいんだな、なんてことをおもいながら、でんぐり返っていたら、息子はもうそばにはいなかった。

 Tは子供部屋の窓のへりに手を重ねてそのうえに顎を乗っけて外を見ていた。
 時折、電車が通る姿と音が聞こえてくるのが見える。Tはひとりなにかをもごもごと言っていた。
 そっとそばに近寄って耳をすます。
 いち、にぃ、さんっ、えっと、しー、ごっ。
 順調に数を数えていた。俺はおそろしくほっとする。このままいけば、数字には強い子供になるかもしれない。ひょっとしたらレインマンみたいに? って思いながら、耳をすます。
 ろく、なな、はっち、きゅー、えっとえっと。
 頑張って思い出そうとしているTは、乗っけていた顎をゆっくり起こすと、おもむろに床に手をついて、でんぐり返りした。
 何度かそれをつづけた後、また窓のそばの定位置に戻ると、はじまった。
 じゅう。じゅういち、じゅーにっ。
 その舌足らずな声を聞きながら、俺はなにかをかみしめていたい気持ちでいっぱいになっていた。

 飽きたのか不意にTが振り向く。
 じっと俺をみつめたまま、パパ電車のった、いっしょにね。そう言った。
 いつ乗った電車のことかわからないから、Tの言葉に注意深く耳を傾ける。
 うん、乗ったね。
 いつのだっけ?
 いつ? いつ? わからないけど。のったの、Pと。
 そう言うと、いたづらが見つかった時みたいな肩をすくめる笑い方をした。
 その時、Tが鼻歌っぽいふしぎな声を出した。
 なんだろうと思いつつ。俺は息子と乗った電車のことを思い出そうとしていたら、ひとつだけ情景が浮かんできた。

 小田急線に乗ったときのことだった。身体が頑丈そうでとてもあたたかそうなセーターを着た男の人が、空いている席に座った。

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