小説

『あるふぁべっと』もりまりこ【「20」にまつわる物語】

 青と赤のニットの短いセーターを着た見知らぬ犬が、飼い主と散歩しながら、こっちばかりを振り返って見る。
 リードの先にちがう形のエネルギーを感じた飼い主は立ち止まろうとしたその犬を、軽くたしなめる。
 目が合う。飼い主とではなくて、そのちいさな犬と。ずっとこっちを向いたままぴたりと止まって。決して動こうとしない。足がアスファルトにくっついてしまったみたいに。俺もなんとなくしらんぷりできなくて。そのまま息子と一緒に立ち止まる。

 その目はどうも、挑むのでも甘えるのでもなくて、どちらかというと、ねぎらっているように見える。
 その犬になにをねぎらわれているのかも、不明だけれど、そういう風情だった。
 そしてしぶしぶ去って行くのだが、飼い主は動かない犬のリードを正しい方向に引っ張って。犬は曲がり角あたりまで、なんども振り返り最後には、なぜだか慈悲の眼差しを向けたまま、飼い主と共に去って行った。
 こういうシチュエーションに、もやっとした既視感があった。
 気がつくと、たいていの犬たちと出会いがしらで出会う時、みんな一様に同じ行動を取ってゆく。ひとりであるいているときも、息子と一緒の時も。
 犬と暮らしたこともないのに、犬の好奇心をくすぐっているみたいで、複雑な気持ちになる。

 わんわんだね。わんっ。
 息子のTがそう呟く。
 わんわんのことは憶えてるんだなって、どこかで安堵する。安心したせつな明日はまた忘れているかもしれないことを思って、少しだけ目の前にもやが、差し込む。

 息子の名は、霧島太一郎という。
 たいちろう。息子が生まれた時、妻が太郎がいいといい、俺は一郎がいいと言った。
 じゃ、ふたつでひとつ、太一郎にしようということで、すんなりまとまった。
 すんなりまとまったのはそこまでで、後に妻がいなくなり、肝心の太一郎は記憶があやしくなるやまいのようなものを抱えていた。
 きりしまたいちろう。
 幼稚園に行く前に名前を言えるようにしておこうと思って、その名を声に出すと、息子は怪訝な顔をした。
 それって、だあれ?
 俺はぐっとこらえる。息子は目の前で微笑んでいるのだ。
 たいちろうくんは、きみだよ。
 きみって?

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