小説

『ヤマネコの夜』藤野(『注文の多い料理店』)

 いつの間にか網を持った女性もガイドの少女もいなくなっている。みんなそれぞれの目的を見つけたのだろうか。
「私はただ・・・ヤマネコを見れるのだと思って」見てすぐにホテルに戻って眠るつもりだった。
 ガイドの顔に会心の笑みが広がった。
「そうか。確かにあんたの格好はヤマネコを見るのに相応しい。問題ない。ほらこっちだ」私の肩をぐいとつかむと繁みの奥へと押し進めた。肩に置かれた手は軽く添えられているだけに感じるのに、私の体は操られるようにするするとその手に導かれる方向へ進んでいく。
「その格好ならたとえしくじっても」ニヒヒと言うどう表現していいのかわからない笑い声を響かせてからガイドが続ける。「きっとヤマネコが必ず見つけてくれる」
 カサカサと頭上の木々が揺れパラパラと枝のようなものが降ってくる。足元を小さな動物たちがさっと身を隠すように横切っていく。パキパキと音が鳴り、カラカラと鳴く虫の音が響く。今では歩くだけで汗が噴き出すような暑さになっている。
 シダが茂った繁みの前で男性にかがむように言われた。
「よし、ここだ。さぁ、覗いてごらん。ゆっくりとだ」
 初めてガイドらしい口調で男性が私に囁いた。もわりとした空気の中に生臭い匂いが立ち込める。「さぁ」もう一度囁かれる。「早く」ごくりと男性の喉が鳴る。ゆっくりと顔を寄せ、片目をつぶるようにして覗き込んだシダの向こう側でポキリと音がした。ごろごろと喉を鳴らす音とともにぼんやりとした光が近づいてくる。ガイドの男性が舌舐めずりをした。もっとよく見ようと思って懐中電灯をパッとその光に向かってつけた瞬間になんとも言い難い動物の鳴き声のような人の悲鳴のような機械の断末魔のような音が響いて一瞬あたりが真っ白になったような気がした。

 ふと気がついたら砂浜に立っていた。
 暗闇の中でも光るように白い浜辺には、動物の足跡らしき小さな窪みと何かを引きずったような跡が、交互にうねりながら浜辺の向こうのジャングルへと続いていた。ざんざんと鳴り響く波の音に混じって微かにガイドの笑い声が聞こえた気がした。

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