小説

『ヤマネコの夜』藤野(『注文の多い料理店』)

 がさりとジャングルから音がした。続いて動物が何かを嗅ぎ回って鼻をならすような気配がした。顔を突き出すように繁みの中を覗いていたカップルの男性が何やら弾んだ声で叫び、かちゃりとナイフを鞘から抜いた。女性の方が何かを祈るようにナイフに口づけをする。鈍く光る刃物はひんやりと心地よさそうに見えた。男性は汗ばんだ髪をかきあげると私たちの方を振り向くことなくジャングルの中に分け入っていった。そのあとを女性が続く。
 ガイドの男性は卵の殻をズボンのポケットに放り込むと再び歩き出した。ジャングルに入っていったカップルはまだ戻ってこない。
「待たないんですか?」
 全員が私を振り返った。
 ガイドの少女もカメラの男性も網を持った女性も無表情で私を見る。
 男性ガイドがゆっくりと口を開く。 
「こいつらが」そう言って微かに残った卵の殻をぐしゃりと踏みつける。
「死んだらニュースになるが、人がいくら消えてもここでは誰も騒がない」
 2人が消えたジャングルの向こうで何かが笑ったような気がした。
 歩いているうちに道幅が狭まりいつの間にか歩道はなくなり完全にジャングルの中を歩いていた。ぶよぶよと妙に柔らかい土がぐちゃぐちゃと靴にまとわりつく。ホテルを出た時は肌寒向かったのに今はじっとりと肌が汗ばんでいる。歩けば歩くほど湿度が上がり、夜気に溶けた獣臭が強くなっていく。
 「オォ!」カメラを持った男性が嬉々とした声をあげて何かに駆け寄って行く。「こいつはいい。野生的な瞬間が収められそうだ」落ちている何かをしげしげと眺め匂いを嗅ぐように鼻を動かすと、「あっちだな」と口のしまりを忘れたような表情で目を爛々と輝かせて闇の中に駆け出した。ガサガサと木々の枝葉を揺らす音がしばらく聞こえていたが、すぐに聞こえなくなった。
 男性が去った後には鈍い光を放つナイフが落ちていた。柄の部分は薄黒く汚れ、てらてらと光っていた。どこかで見たナイフだと思った。
「で、あんたは何をしたいんだい?」
 気づくとガイドの男性が私の真後ろに立っていた。上唇の上にたまった汗をペロリと舐めて、じっと私を見つめている。
「何って?」
「これはナイトツアーだよ。何かしたいことがあって参加したんだろ」
 確かにそうだ。
 私は一体何をしたくてこのツアーに参加したのだろうか。
「あんたが最後の1人だ」
 言われて気づいた。

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