小説

『二十世紀のポルターガイスト』日影【「20」にまつわる物語】

 医師は何度も無言で深く頷いた。
「あの、妻のことですが……」
 老人の言葉をさえぎるように、医師は言った。
「何もご心配はいりませんよ」
「え?」
 医師は眼を細めて老人の妻を見つめると、再びその視線を老人に戻して言った。
「入院されている間、奥さんは僕の知り合いのケアセンターにいればいい」
「先生……」
 医師は老人の眼をしっかりと見据えると、微笑み、言葉を付け加えた。
「いいですか、道は、たくさんあります」
 老人は深々と頭を下げたまま、しばらく動くことができなかった。

◇◇◇

 何度目かの春が、ふたりの前に忘れずに訪れた。
 病院内に植えられた桜のトンネルの中を老人はゆっくりと車椅子を押して歩いてゆく。
 車椅子に揺られる妻は、夢の中。
 ふたりのシルエットが影絵のように見える。
 老人は車椅子を止め、ひときわ大きい桜の木の近くにあるベンチに腰掛けた。
 桜の木を仰ぎ見る。
 風が花びらをなでるたびに、桜の花びらが降りそそぐ。
 花びらは、ひらひら舞い踊り、空中でしばらく漂った。
「きれいだね」
 老人は降りそそぐ桜を見ながら言った。
 笑みを浮かべたまま眠っている妻の返事は期待していなかった。
 突風が桜の花びらを更に高く舞い上げた。
 降りしきる桜雨。
「ありがとう」聞こえた声に、老人は驚いて妻を見る。
 それは確かに、妻の声だった。
 妻はしっかり、老人の瞳を見据えていた。
 老人の眼から涙がとめどなくあふれ出す。
 妻は小さくうなずき、そして、
「あなた、ありがとう」
 老人は声にならない声を、妻の掌でふさいだ。
 桜がふたりを祝福するように降りそそぐ。

“ありがとう”

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