小説

『次、停まります。』間詰ちひろ【「20」にまつわる物語】

 女性は振り向き、絵美を見つめた。誰だろう、この子。何か用事? とでも言いたそうな表情で、絵美を見つめている。「なあに?」とも、「どうしたの?」とも声は発することなく、絵美の言葉を待っているようだった。
 思い切って声を掛けてみたものの、絵美自身もどうしていいのかわからなかった。「お母さんですか?」なんて、聞くわけにもいかない。かといって、「あ、人違いでした」とごまかすこともできなかった。次の言葉を、なんと発したら良いのかわからなかった。えっと……と絵美が口のなかで次の言葉を探しているうちに、一台のバスが、すうっと音もなく近づいてきた。相変わらず、行き先の表示はよく見えなかった。
「良かった」女性はホッとしたように小さく呟き、停車したバスに乗り込もうとした。
 絵美は、女性の後ろ姿を、ただじっと見つめていた。お母さんに、似た人だった、とても。そう思いながら。なにも、声を掛けることは、できなかった。
 女性はバスに乗り込む時、ちらりと振り返り、絵美を見た。何か言葉を発する訳ではなかった。けれど、その女性は絵美の顔を一瞬だけ見つめ、にっこりと笑いかけてくれた。その笑顔は、はっきりと絵美に向けられたものだった。その笑顔を見た瞬間に、絵美は胸が苦しくなり、「言ってしまう前に、何か言わなければ」と、焦った。絵美が言葉を発しようとしたけれど、女性はもう振り返ることはなく、サッとバスに乗り込んだ。そして、扉はすぐに閉まり、バスはあっという間に発車していった。

 時間にしてみれば、ものの五分も経たないうちの出来事だった。けれど、絵美にはとても長く感じられた。行き先不明のバスが発車してしまったあとも、ぼんやりと座り込んでしまった。……あの人は、誰だったんだろう? お母さんに、すごく似てた女の人。でも、お母さんなら、何か言ってくれそうな気もするし……。あれは、二十歳の私の姿なのかな? あれこれと、頭の中で想いが駆けめぐる。けれど、確かめる術はなにもない。答えのでない考えは、メリーゴーランドのように、ぐるぐると頭の中を回りつづけていた。
 ほどなくして、絵美が待っていたバスが到着した。ぼんやりとしながら、バスに乗る時、ふと時刻表に目をやった。けれど、さっきの女性が降りたバスも、そして乗り込んでいったバスを指し示す時刻は見つけることはできなかった。

「絵美ちゃん、遅かったね。道、混んでた?」
 祖母の家についた時、玄関先まで出迎え、心配そうに話しかける祖母に対して、絵美は「うん、ちょっと」と答えるだけで精一杯だった。絵美は母を亡くしたけれど、祖母は娘を亡くしたのだ。その祖母に向かって「お母さんにそっくりな人をみかけたよ」というのは、少し酷かもしれないと、とっさに思ったからだった。
 押し入れの片付けをしていて、ちょっとホコリっぽくてごめんね、と謝る祖母に「大丈夫だよ」と声をかける。祖母が入れてくれたばかりのココアに絵美はそっと口をつけた。温かくて、とても美味しい。そのココアの甘さを感じた時、ようやく現実に戻ってきたような気がした。

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