小説

『専業労働者』高橋己詩(『アリとキリギリス』)

 アリ太は『佐藤がいびきをかき始めたら』という見出しで始まるページを開きました。気道確保を促す記載があり挿絵つきの解説もありましたが、その解説はアリ太には不要でした。人命救助に関する講習を、商船学校時代に受けていたからです。マニュアルはほとんど読まず、素早い手つきでその手順を踏むことができました。

 ささっ

 本社での研修のことを、アリ太は思い出しました。
 研修前半はパワーポイントで作成された資料をプロジェクターで投影し、社員がそれを読み上げるだけでした。手元には事前に配布されたA4紙の資料。内容は投影されているものと全く同じです。
 しかし後半からは毛色が変わりました。同じプロジェクターが、動画を投影したのです。それは『コンプライアンスマニュアル』という題字のフェードインで始まる、研修目的に作られた映像でした。株式会社アナツクが独自で製作したもののようです。
 眠っている佐藤の監視をするタヌキ太という名の青年と、そこに現れる第三者とのやり取り。それが四章立てで展開していくという内容でした。
 第一章はタヌキ太の相手役に、ゾウ次郎が登場しました。

タヌキ太「よし、今日も一日監視を頑張ろう。右よし、左よし。室温、異常なし」
ゾウ次郎「タヌキ太、こんにちは」
タヌキ太「あ、こんにちは」
ゾウ次郎「何をやっているんだい」
タヌキ太「佐藤の監視だよ」
ゾウ次郎「へえ、そうなんだ。大変そうだね」
タヌキ太「そうなんだよ。一日を通しての佐藤の様子を簡潔明瞭に報告書にまとめ、日没時には、それを管理局に提出しなければならないんだ」
ゾウ次郎「なんだか難しそうだね」
タヌキ太「確かに簡単じゃないよ。でも、それを求めている人が大勢いるんだから、僕はこの業務を誇りに思っているんだ」
ゾウ次郎「それはとても良いことだね」

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