小説

『あめゆき』緋川小夏(『雪女』)

 風の音に紛れて、若い女の声が聴こえた。こんな山奥の崖の下にある洞穴に若い女などいるはずもない。自分は夢を見ているのだろうか。それとも幻覚だろうか……わたしは身を硬くして、じっとと様子を窺った。
「ここで夜を明かすのは危険だわ。心配しないで、あたしと一緒に行きましょう」
 そう言いながら洞穴の中に入ってきたのは、ショートカットの小柄な女性だった。しかも服装は白いカットソーにジーンズと軽装で、冬山を歩くための装備は何もされていない。もう日も暮れて外は吹雪だし、若い女性が薄着で通りかかるような場所ではないはずなのに。
「来るな……こっちに来るな」
 わたしは腰が抜けていた。じりじりと後ずさりするわたしに、女がゆっくりと手を差し伸べる。氷のように冷たい指先が頬に触れた途端、わたしは驚きと寒さで気を失った。

「花嫁姿。ひと目でいいから、お母さんにも見せたかったなぁ」
 鏡に映る自分の姿を見つめながら、娘がぽつりとつぶやく。
「そうだな、さぞかし喜んだだろうな。もう少し生きていてくれたら、きっと……」
そう言いかけて、わたしは口をつぐんだ。わかっている。妻はもうとっくに、いないのだ。願ったところで叶うはずなどないと頭では理解していても、今日だけは言葉にせずにはいられなかった。
「あ、雪。お父さん、雪が降ってきたよ」
 娘が大きな窓に歩み寄って空を見上げた。わたしもつられて空を見上げる。鉛色をした雲から無数の白いものが、ふわふわと舞い降りているのが見えた。
「雪か。もう四月なのに、どうりで朝から冷えると思った。桜の花ももうすぐ満開なのに、この雪で散ってしまわないといいけどな」
「うん……」
 式場の庭園を彩る八分咲きの花びらが、北風に揺れている。せっかくの晴れの日なのに、まさに花冷えという言葉がふさわしい天気になってしまった。わたしは季節外れの雪を少しうらめしく思いながらも、大きな窓ガラスの前で微動だにしなかった。
 雪はどんどん強さを増して、容赦なく降り続く。この降り方だと、もしかしたら式の間に少し積もるかもしれない。参列者の方々の帰りの足元が気がかりだ。
「お母さん」
「えっ?」

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