小説

『蟻』杉長愁(『蟻とキリギリス』)

「ヨシくん、これからこれから」
 俺は何のことかわけがわからずに戸惑ってたんだ。ただただ二人の様子を眺めてた。すると安藤の視線の先にあるお父さんのすね毛の蟻が、ひとつ、ふたつと動き始めたんだ。それはだんだんと数を増し、俺がぐるぐると回して作った右足の蟻もひとつ、ふたつと動き始めてきて……。気づいたら安藤のお父さんのすね全体を覆うように何匹もの本物の蟻が蠢いている。次第にその本物の蟻たちはすねから這い上がって太もも、胴体、両腕、そして顔までも覆い尽くしたんだ。驚くのはまだ早い。それだけでも俺は驚いて声が出なかったのに、その無数の蟻で覆い尽くされた安藤のお父さんと言うべきか無数の蟻の集団というべきか、その巨大なものがゆっくりと形を変えていき始めた。両腕の下あたりから二つ、対になった脚のようなものが出来始め、それと同時にもとあった二本の脚は一つの丸い塊へと姿を変えていく。そして頭部からは二本の触角のようなものが伸び始め、目が大きく丸く、口は大きな顎へと形を変え、気づいた時には無数の蟻で覆われた安藤のお父さんは、巨大な一匹の蟻へと変身していた。
 俺はその光景に圧倒されて、その場に立ちすくむ事しか出来ないでいたんだ。すると安藤がこう言うんだ。
「ヨシくん、ほら早く」
 俺は安藤に手を引っ張られてその大きくなった蟻、いや、巨大な蟻に変身した安藤のお父さんの上にまたがった。安藤は一対の触角を操縦レバーの様に両手で持ち、俺はその安藤の腰にしがみついた。
「ヨシ君、しっかりつかまってるんだよ」
 安藤のお父さんはそう言うと、俺らを乗せたまま庭を駆け回ってくれたんだ。思ったよりスピードもあって乗り心地も良くって。お父さんと一緒に遊園地でジェットコースターに乗ったら、きっとこんな気分なんだろうなって。スリルと安心感が同時に存在してるような。もう楽しくて楽しくて。ずっとずっと乗ってたい気分だった。でも楽しい時間はそう長くは続かないもんで、
「ヨシ君、今ヨシ君のお母さんから電話かかってきてそろそろ帰ってきなさいだって」
 安藤のお母さんからそう告げられ、俺たち二人は安藤のお父さんから降りた。
「おじちゃん、本当にありがとう。本当に凄く楽しかった!」
「それは良かった。ヨシ君、いつでもいいからまた来るんだよ」
 安藤のお父さんは近所の評判通りめいっぱい働く人だった。仕事のことはわからなかったけど、自分の息子の友達である俺にだってめいっぱいサービスしてくれたんだ。もちろん俺が片親だって知ってたから色々と気を使ってくれてたのもあるかもしれないけど……。ただひとつ、このまま安藤のお父さんはどうなっちゃうんだろうって気になってて。そしたら安藤がおもむろにお父さんの脚に手のひらを当てて、さっきとは逆の反時計まわりに回し始めた。すると全身を覆っていた無数の蟻たちが、ぐるぐると回している安藤の手のひらに向かってサーッと引き寄せられていく。あっという間に四つん這いになっていた安藤のお父さんが、元の姿で俺の目の前に立っていたんだ。俺はまたも呆気にとられて、ただただ安藤のお父さんを見上げていることしか出来なかった。そんな俺の髪の毛を、安藤のお父さんはくしゃくしゃってしてくれてね。それもなんかすごく嬉しかったな。俺もいつかこんな素敵なお父さんになりたいなって、その時思ったね。

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