小説

『蟻』杉長愁(『蟻とキリギリス』)

 それから家の中に戻って帰り支度を整えていると、玄関のチャイムが鳴った。
「お父さん、またあの人よ。どうします?」
「大丈夫だよ。僕が出るから」
 俺はどうしたのかなと思って安藤にこっそり聞いてみたんだ。
 当時、俺たちの近所に昔歌手で一世風靡した人がいてさ。ただその時はもうほとんど売れてなくてテレビでもその人のことを見ることはほとんどなかった。でも当時は相当派手に遊んでたみたいで、近所では評判だったんだ。で、その人が安藤の家の隣に住んでるらしくって。安藤によると毎晩のように何かご飯は余ってませんかって聞きに来るんだって。俺はお母さんからその人の話はちょっとだけ聞いてたんだけど実際に見たことがなくって。一体どんな人なんだろうって、興味本位でこっそり安藤のお父さんの後ろに隠れて玄関まで見に行ったんだよね。安藤のお父さんが玄関を開けると、そこには背の高い初老のおじさんがぽつんと立ってた。手足がやけに長く、白髪交じりの髪の毛も腰のあたりまで伸びてた。それになにより、真ん丸い目が印象的な人だった。
「すみません。もしなにか食べるものが余ってたら、捨てるものでもかまいません。いただけませんか?」
「ああ、今日はちょうど息子の友達が来てたから、多目に作っていたのでぜひ持って行ってください」
「ありがとうございます。ありがとうございます」
 そのおじさんは何度も頭を下げた。
 安藤のお父さんが晩御飯の余りを持って行ってあげると、おじさんはその真ん丸い目に、今にも零れ落ちそうな涙をためてこう言うんだ。
「いつもいつもありがとうございます。今日こそは、是非お礼に歌を歌わせてください」
「いいんですよ気を遣わなくて」
「いえ、今日こそは是非」
「そうですか。では今日はちょうど息子の友達も来てることですし、一曲お願いいたしましょうかね」
「是非とも!ありがとうございます!」
 俺たちは玄関に集まっておじさんの歌を聞いた。とてもしゃがれた声で歌われるその歌は夏の夜にぴったりだった。英語の歌詞だったのでもちろん意味はわからなかったけれど、なんて美しい歌なんだろうと思った。
 そしてその歌が終盤に差し掛かったころ、またも目を疑う出来事が起こったんだ。情感たっぷりに歌い上げるおじさんのその真ん丸い目から、一筋の涙が零れ落ちた瞬間だった。おじさんはあろうことか、一瞬にしてキリギリスに変身したんだ。長い手足はそのまま三対の脚に。真ん丸い目はそのまま複眼に。そして腰まである長い髪の毛は、そのまま長い一対の触角へと姿を変えた。
 俺がまたも驚いて声も出せないでいると、安藤のお父さんが振り返って、「大丈夫だよ」と微笑みかけてくれた。安藤のお母さんも安藤も見慣れた様子なのか驚きもせずにそのおじさん、いや一匹の巨大なキリギリスの歌に聴き入っている。俺も幾分落ち着きを取り戻して、またキリギリスの歌を聴くことにした。大粒の涙を流し、翅を懸命に震わせながら歌い上げるそのキリギリスの姿に、子供ながらとっても感動したのを今でも覚えてる。

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