小説

『舌(ZETSU)』不動坊多喜(『王様の耳はロバの耳』)

 一人残されて、私はむしろ喜んだ。口うるさい母から解放され、帰りは電車の一人旅だ。大冒険だ。
 休みを満喫し、文字通りスキップしながら帰った私を迎えてくれたのは、「お母さんはもう帰ってこない」という父の言葉だった。
 父は多くを語らなかったが、近所の人の噂から、母が男と駆け落ちしたことを知った。父は母の行方を探そうともせず、その事実を受け止めた。今思うと立派だったのかも知れない。しかし、当時の私には理解できないことだった。
 もともと父は無口で、何を考えているのかよく分からないところはあった。思春期になるとそんな父に反発を感じて、いつもけんかを売っていた。しかし、一度も買われたことがなかった。それが一層いらだたしく、家を飛び出したというわけだ。

(私の恨みが見せた夢か……)
 その夜はもう眠ることができず、朝まで風鈴の音を聞いていた。

 寝不足のせいで、あくびばかり出る。何とか午前中は片付けに専念したが、昼食を食べると瞼が落ちてきた。
 ちょっとだけのつもりで、横になる。

「あなた、どうして、ここに」
 母が叫んでいる。
「お前達の企みぐらい、気づかないと思っていたのか」
 父が怒っている。
「やめてー」
 母の叫び。襖が破れて倒れる。ガラスの割れる音。ぐわっといううめき声。父の荒い息。母のすすり泣き。事切れる響き。そして、それら全てを打ち消そうとするような、嵐の音。

 全身ががくんと痙攣し、飛び起きた。
 そうだ、盆明けに台風が来た。直撃だった。これは、あの夜起こったことだというのか?
 汗ばんだ頬を、風がひとなでする。風鈴が応える。
 背筋を伝う汗が、体温を奪う。
 風鈴を見上げる。
 まさか、……。けれど、……。
 妻が言ったじゃないか。
「すごく卑猥な夢をみたの」
 私も見た、同じ夢だったのでは?
 あの夏、風鈴は、ずっとここにあった。

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