小説

『舌(ZETSU)』不動坊多喜(『王様の耳はロバの耳』)

 母の夢など何十年ぶりだろう。まだ生きているのだろうか。父の死を知ればどう思うのだろう。
 リーンという微かな響きに振り返る。
 そうだ、あれは、母の風鈴だ。結婚前に買ったと言っていた。幸せを呼ぶ風鈴だと。
 確かに、父と私を捨てた女の夢なのに、幸せな気持ちになっている。不思議なことだ。
 通夜に眠ったからといって、どうってことはない。どうせ私は親不孝だ。今更だ。それより、幸せな夢に浸る方が良い。
 重い瞼をそっと閉じる。耳を澄ます。夢が来る。幸せを連れて……。

 葬儀を無事終え、私たちは帰途についた。
 次に来るのは初盆で良いだろう。満中陰もその時済まそう。七日毎の法要は、省略すると罰が当たるだろうか。
 そんなことを考えながらハンドルを握っていると、助手席で妻がつぶやいた。
「お義父さんが亡くなったのに、こんなこと言うのは悪いけど、夕べはとても幸せな気持ちだったの」
(私もだよ)
 声に出さず、答えた。胸の奥に蘇った思い出は、まだ温かだった。

 初盆には、また二人で訪れた。
 部屋を掃除し、座布団を干し、お茶の支度をし、僧侶を迎える。縁側では、風鈴が涼しげな音を奏でながらその様子を見ている。
「案外、疲れるものね」
 湯飲みを洗い終わり、妻は振り返った。
「朝が早かったからだろう。時間もあるし、ちょっと横にならないか」
 肩を回しながら「そうね」と答え、妻は畳に座り込んだ。座布団を半分に折り、枕にする。私も、並んで寝そべった。

 衣擦れの音がする。艶めいた女性の喘ぎが聞こえる。男を欲しがっている。ピチャッという微かな響きは、唾液の音? それとも……? 呼吸のリズムがどんどん速くなっていく。喘ぎもテンポを増していく。
「ああー」

 はっと目が覚めた。体が興奮している。何て夢だ。思い出すだけで顔が赤らむ。
 隣に眠る妻を見る。穏やかな表情で寝息を立てている。
 時計を見ると、そろそろ電車の時刻だ。慌てて妻を起こす。これを逃すと、今日中に帰れなくなる。
 何もない家なので、片付けは私一人で十分だろうと、妻は先に帰ることにしていた。
 車の中で妻はあくびを繰り返していたが、降りる直前、艶っぽいまなざしを向けた。

1 2 3 4 5 6 7 8