小説

『カタリベマッチ』もりまりこ(『マッチ売りの少女』)【「20」にまつわる物語】

 口喧嘩していた。女の人の鞄には黒のフェイクファーのファスナーの先に鳥の羽根みたいな茶色いチャームがついていた。
「そんなに帰りたいんやったら、ひとりで帰ったらええやんかぁ」
 そう言いながらしきりに鞄のファスナーを閉めようとしていた。閉めたいのに閉まらずにいる鞄に手こずっている。
 男の人は煙草を吸っている手を止めて「貸してみぃ。直したるからそれそのチャック」って言ったのに女の人は聞かずに彼の手を払い、「あたしはひとりでさびしくコンビニのおせちあんたの分まで食べたるから。帰ったらええやん。手あたり次第に勝手に田舎に感動してFBにでも報告したらええやん」
 彼女の手は狂ったように鞄をいじる。だから貸してみぃって、しまいに壊れるぞそれ、それほらリン貸せいうとるやろとがなった後、男の人は何かを咬んでるしまらないファスナーに向けて自分のジッポの火を、そこめがけて放った。あんた頭おかしいんちゃう。あたしの鞄なにすんの? って言った途端ファスナーをみると、咬んでいた何かが、ほんとうにそこにあったことも嘘のように、なにごともなかったかのようにす
るするとスムーズに開閉していた。
 ファスナーが咬んでいたのは、ひらひらのハンカチだった。少し焼け焦げていた。女の人は一瞬、ジョウちゃんなにしたん? 今。なんで直ってんの? なになにいまのなに? って男の人の眼の中の光を探すように好奇心と、たぶんやっぱこういうときのジョウちゃん好き! みたいな視線を彼に注いでいた。
 その時、わたしはなんかそのジョウちゃんっていう冬場なのにセーターにマフラーだけ巻いている薄着の彼の、咄嗟の処理の仕方に好感を持ってみていた。
 周りをみていると、みしらぬ野次馬がたくさん輪をなしていて、違うカップルがすごぃ! ファスナーなおったね! っていう声があちこちでしていた。
 輪の中の女の子たちは、彼らふたりをスマホで撮っていて、夥しいカシャって音が、辺りの曲を遮るようにそこに響いていた。
 その輪から外れる時、干しシイタケを煮ているような匂いが惣菜屋のどこからかしてきて、あしたジョウちゃんは、やっぱり田舎に帰るのだろうかと、ちらっと頭をよぎったことを覚えてる。
 それは去年の大晦日のことなのに、その翌日から昨日までと、その昔のこともわたしの中には蓄積されていなかった。じぶんをどう覗いてみても空っぽだった。
 誰と知り合い誰を憎み、ってのは大げさにしても、どこにゆかなければいけなかったかをまるまる忘れてしまった。
 さっき笑いながら目覚めたときにわたしが見ていた記憶はいったい何だったんだろう。
 悪夢みましたみたいな笑える話なんだろうか。

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