小説

『カタリベマッチ』もりまりこ(『マッチ売りの少女』)【「20」にまつわる物語】

 自分の笑い声で眼が覚めた。口元がゆるんですこし枕を涎で濡らしている。拭うと妙に冷たくて、うつぶせになったまま一言声のような獣のような意味のない声を放った。
 遠い空からヘリの音とたぶん隣の住民が廻しているらしい洗濯機の終わりましたよチャイムが、けたたましく鳴っている。あの音は右隣の部屋からも左隣の部屋からもずれて聞こえてきた。
「歌ちゃん、すげぇよ。もうそれができんのぉ! 父ちゃん父ちゃん、歌がねぇ父ちゃんちょっとこっち来てよ、歌がもうあの技で、乗れるようになってんだよ」
「へぇ~歌ちゃん、すごいね。もいちど父さんに見せよて今の」
 アパートの大家の小学校にあがったばかりの息子の声が窓の外からする。
 歌ちゃんか。
 いつだったか、あなた花ちゃんよね、おばさん知ってるわよって近所のおば
さんに呼び止められた幼稚園児の歌ちゃんは、憮然とした表情と態度で「歌!」と一言名前の間違いをすかさず、訂正していたことを思い出す。
 枕でひしゃげた頬から、空気の抜けた笑いが漏れる。
 歌です、花です。どっちがほんとだったかわからなくなることがあって、あの大家の娘はどっちだったっけってどうでもいいことなんだけどって思いながら、あの毅然としていた声「歌!」を思い出してあぁそうそうあの子は歌ちゃんでしたと、納得する。納得した後、そこだけぽっかり浮かんだみたいな、ゆらぎを身体の底の底の方に感じた。

 その日のわたしは何かがいつもと違っていた。くしゃくしゃのシーツの中で突然、昨日のことを頭に思い浮かべようと思ったらなにも出てこなかった。その日を迎えた時、記憶は飛んでいた。
 昨日だけじゃない。その前の日のことだってあやふやなんてものじゃなくてクウだった。ひと月前もその前もそれがいつのことかわからなくてもいいから何かを思い出そうとしてもなにもでてこない。突然でてきたのは、去年の大晦日のことだけだった。

 よくみると、ゼブラゾーンの白とアスファルトの幅はあいまいらしく所々が細くなったりしている横断歩道を渡ろうとしている映像が浮かんだ。
 明るいコンビニの光のせいで、とある男の人と女の人がそこだけぽっかりとスポットを浴びたみたいにむきだしになっている。

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