そう喋りながら、ママはゆっくりと席を立って僕にビールを注いでくれた。コトン、とテーブルの上に置かれたビールは、やけに黄金色が綺麗に見えた。
「それでも僕は、24時間夢が叶うだけじゃ、やっぱり物足りないですよ。ずっとお姫様になれるなら、誰がなんと言おうと、結果的に幸せなんじゃないかな」
「そうね、そうかもしれない。けど、魔法にかかったその人は誰なの?それはきっとシンデレラじゃなくて、別の誰かじゃないかしら」
「大事なのは」と、ママはまたビールを少しだけあおった。
「大事なのは、違う世界を少しだけでも見せてもらえたこと。自分の生きる世界、って勝手に決めつけている枠の外にも、自分の居場所があるかもしれないって、自分自身で気がつくこと。そうなって初めて、弱い自分との折り合いをつけられるようになるのよ。そしてもっと重要なのは、そこに引っ張り上げてくれる誰かが、その人のそばで妖精みたいにこっそり耳打ちしてあげることなの」
そんな人は近くにいないな、と僕は呟いた。いるじゃない、とママはすぐに笑った。
「もちろん心理的な距離が近い人がいたらいいわね。けど、誰でもいいからそういう人に出会えばいいのよ。あなたが今日、足を運んだことにもきっと大きな意味があるわ」
そうかなあ、と僕もビールをあおった。
「その効果がたった24時間でも、その24時間を何個も積み上げていけばいい。あなたが”東京”のスタートラインに立ちたいって思ってここに来たことも、そもそもそういう風に思い立ったことも、きっと違うステージに引っ張り上げてくれる誰かに出会えたからなんだとおもう。そうやって、ちょっとずつでも前に進めるだけ、相当すごいことなんじゃないかな」
ビールはお代を払わなくてよかった。「常連にツケとけばいいから」とかなんとかで、半ば強引に帰されたのだ。オスキナのママは、どこまでも豪快な人だった。
オスキナは他の店と特段変わらないバーで、なんでもない日常の一瞬だった。それでも、その日は普段よりも胸のあたりがソワソワしていた。少しだけ変われるような気がしていて、そのキッカケを与えてくれたであろう誰かに、どうしようもないくらい感謝の気持ちを表したくなった。
とにかく、僕は東京に立っている。それだけで、すごく大きな進歩だ。そして少しだけ、ほんの少しだけ東京になれるような気がしていた。
さっきまで周りにいた”東京”は、もうどこにも姿を見せることはなかった。青信号になった横断歩道を渡り、僕は回り道をして電車に乗ることにした。