ジョーが歯磨き粉の箱を持って再び表に出てきたとき、僕はわざわざジョーのいる棚にまで歩いていった。
「あのさ、”東京”って、意味わかって言ってる?」
え?とジョーは目も口も丸くしている。そのままの状態で、ジョーはコクンと頷いた。僕は引きつった笑顔のままで、ふうん、と言った。
「そう、ならいいんだけど。そんなこと、初めて聞いたから」
「そんなことってえ?ワタシなんか言ったあ?」
ジョーは本当になんの話をしているのかわかっていなかった。よく見ると、ジョーはあどけない少女みたいな顔をしていて、これ以上喋っているとすごく汚れてしまいそうな気がした。彼女には、悪気なんて1ミリもないのだ。
「なんでもない。けど、さっきの話。そんな店があるんだったら、まさしく俺らみたいなやつらが行くべきなのにって思ってたから」
「ああ、オスキナのことかあ。場所教えてあげようかあ?ちょっと遠いけど、渋谷にあるんだってえ」
そう言われて、僕は少しだけ怖くなった。突如として、僕の中の閣僚会議が招集され、革新派と保守派の侃侃諤諤な応酬が始まる。少しだけ、時間をおいた方がよさそうだ。
「うん、ちょっとまたあとで話させて」
おっけえい、とジョーは歯磨き粉の品出しを再開した。
渋谷なんて、それこそ“東京”のど真ん中じゃないか。ジョーの言う通り、僕らではない、”東京”でもない誰かがその店に行くべきなのかもしれない。やめやめ、と元の棚に戻ってコンディショナーを手にした。「だけど」と、革新派の僕がおずおずと手を挙げる。「本当にこのままでいいの?」
その日、僕はGと偶然を装って同じ時間にバイトをあがり、適当な理由をつけて飲みに行った。オスキナの場所を聞き出すのは簡単だった。”東京”のフリをする、頭のおかしいやつらを一目見たいと言うだけでよかった。Gはこの生活を愛しているのだ。退廃的で、これといった目的もなく、毎日の24時間を意識もせずに生きていくことを。
オスキナは、道玄坂と神泉の間の小道にあった。三度ほど店の前を行き来したのは、あまりにも想像と違っていたため。なんの店なのかは聞いていなかったから、なんとなく占い屋のような怪しげな店をイメージしていたのだ。深い緑色のペンキで無邪気に塗りたくられた壁に、赤いフチの開き戸という出で立ちは、まさしく中華屋そのものなのだが、開き戸の右上に申し訳なさげにつけられた看板が『BAR』と書いてあるから、かろうじてバーであることはわかった。その割に昼間から営業はしているようで、OPENの看板だけがいやに目立って見える。