小説

『わがままな人体』紫水晶【「20」にまつわる物語】

「口さん、もう一度どうぞ」
「反射を使うのだとしたら、脳からの支持を待たずに反応できる。すなわち……」
「すなわち?」
「要らないのは、脳だ」
「脳だ……」
「脳だ……」
「脳だ」
「脳だ」
…………。
 口から発せられた声に呼応し、全ての器官が輪唱のように順々に鳴り響いた。
「皆さん、静粛に! 静粛に!」
「脳さん」
 静かな、それでいて刺すように鋭く、神経の声が全身に伝わった。
「いい加減認めてください。あなたはもう、必要ない」
「待っ……」
「そもそも脳さん。お忘れかも知れませんが、あなたもこの、神経系の一部にしかすぎないのですよ」
「……!」
 断末魔のような叫びが脳から発せられ、健人の意識は底なし沼のように果てしない暗闇の中へ引きずり込まれていった。

***

「どうですか?」
「一応消化はできるようだよ。ただ、欠落している臓器があるから、完全ではないが……。しかし、これは実に興味深い」
 真壁教授は手元の書類に素早くペンを走らせると、ガラス張りの壁の向こうに視線を向けた。
 そこは、白い壁で仕切られた六畳ほどの小さな部屋だった。部屋の中央にベッドが一つ。壁際には小さな勉強机。机の上には小説が一冊と青年誌が数冊置いてある。調度品の類は全て白で統一されている。
 ベッドの手前には小さなテーブルと椅子が一脚。その椅子に一人の青年が腰かけ、食事をしている。だがそれは、食事と言うにはあまりにも豪快で、先程から休む間もなく、手掴みで食物を口に運び続けている。白い病衣が、ハンバーグのソースでみるみる茶色に染まっていく。
「言葉はわかるんでしょうか?」
 胸に『木村』というプレートを付けた男が、真壁に向かって問いかけた。
「いや。こちらの言うことをオウム返しするだけで、理解はしていないようだ。何しろ大事な脳が機能していないんだからな。小説や雑誌にも見向きもしない。食べ物は認識しているようで、目の前にある限り食べ続ける。そして、消化が完了すれば自動的に排泄する。生殖器も正常に機能しているから、精液が溜まれば勝手に射精する。まさに『本能の赴くまま』さ」
「なるほど」
「だがな」
 真壁はガラス製のドアをおもむろに開けると、部屋の中に入って行った。
「教授?」
 不安げな木村を余所に、真壁はまるでダーツでもするかのようにペンを耳の横に構えると、目の前で一心不乱に貪っている青年に狙いを定めた。
「教授!」
 木村の叫び声と同時に、ペンが真壁の手を離れた。
「あっ!」
 ほんの一瞬の出来事だった。真壁の手から離れたペンは、しっかりと青年の左手に握られていた。
 真壁は悠々と青年に近付くと、その左手からペンを抜き取り、そのまま何事もなかったかのように部屋から出てきた。
「教授。これは?」

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