殺そう。
殺すなら今日しかない。
誠司はそう言った。誰に向かってそう言ったのか。誠司の頭の中に潜む、もう一人の誠司が己に向かって言ったのだ。
二十人の老若男女が集まる小さな会場の中で誠司は一人、煮えたぎるような怒りを感じていた。
許せない。
私の気持ちなど誰も分かってくれなくて良い。これは私だけの問題だ。
相手は一人。誠司が殺したいのは一人だけである。
そのたった一人の若い男を殺してしまえば、幸せに満ちていた心をチクリチクリと痛めつけてきた棘のような苦しみからついに解放されるのだ、と誠司はそう信じていた。しかしながらどうやって彼を殺せば良いのか。それは愚かにも考えていなかった。人を殺せるような銃や刃物は用意していない。ましてや日が経ち過ぎた人参のようにヨボヨボで、シワだらけで、シミだらけの両手を持つ六十五歳の誠司。実際の年齢より、見た目も体力も遥かに老いるこの男に二十歳の若き男を素手で殺れるはずもない。
だからといって完全に殺せない訳でもなかった。誠司の右手にはすでにナイフがある。何故ゆえにナイフがあるのか。皿の上に盛り付けられた肉を切る為のナイフだ。鋭利なサバイバルナイフと比べれば大したものではないが、持つ者次第では、あるいは力の加減次第では充分なまでに凶器となるだろう。ナイフを持つ者は誠司だけではない。この会場の誰もがナイフを手にして肉を切って食していた。金物がカチカチと皿に当たる音と、人の声が方々から聞こえる。誠司は左手に持ったフォークで牛肉が泳がないようにしっかりと固定し、右手のナイフを上下に動かしながら塊の右部を切り落とした。肉は簡単に切れた。切れたと同時に切り口から肉汁がじんわりと流れ出た。今度はフォークで肉を突き刺し、自分の鼻の辺りまで持ってくるとそれを見ながら、この肉があいつの肉体であればと想像する。肉を口に入れてゆっくりと噛み砕く度に旨味をたっぷりと含んだ汁が溢れ出て、それを美味しいと感じた。肉は口の中からすぐに消えた。あまりの柔らかさゆえにすぐに消えた。
「お前もこの肉のように無残に切りつけて、私の記憶から完全に消してやる。お前の死の味も私にとってはとても美味いはずだ」
誠司には一人の娘がいる。二十歳の娘だ。名は愛子。すでに死別しているが十五も離れた妻との間に出来た娘だ。妻は不慮の事故で四年前に死んだ。その後は小さな平屋で愛子と二人で暮らした。母の仕事をすべて引き受けた愛子はそれを己の使命と思ってか、一度も弱音を吐かずに家事に励んだ。普段は会話のない二人だが誠司はそんな娘と永遠に暮らせるものだと思っていた。