小説

『オールドマン オブ マリッジブルー』伊佐助【「20」にまつわる物語】

 馬鹿野郎!ふざけるな!、と言って気持ちのままに怒り狂う父になるか、自分の気持ちに嘘をついたまま冷静な父を装うか。答えは明確だった。後者しかなかった。娘に嫌われるのが怖かったからだ。本当は目の前のちゃぶ台に何度も額を叩きつけたいし、ちゃぶ台をひっくり返したいし、号泣したいし、窓を開けて我武者羅になって満月の下の狼のように吠えたいし、なんなら今すぐに外に飛び出して車にでも轢かれたい気分。今ならば子供が乗る自転車に轢かれても簡単に死ねる自信もあった。

「凄いな」

 何がだよ。無意識に三回も言ってしまったよ。
 全く凄くなんてない。

「で、どうなのよ」

 愛子が言った。

「何が」

 すでに鬱なる気持ちが脳を完全に支配していたが為に娘の質問を全く聞いていなかった。

「だから明日の夜は平気だよね?彼氏、ここに連れてきても良いよね?」

 二つ目の選択肢。
 はいといいえ。
 会うか、会わないかの分かれ道。
 でもこの選択は、ある意味においては決まった答えを言うまで苦しめられる拷問のようにも感じた。もしも選択を誤ってしまったならば娘を失うかもしれないという電気椅子クラスの電流ショックが待ち受けているはずだ。しかしながら、はいを選んだとて、いいえを選んだとて答えは同じだ。娘を失うのには違いない。好かれて終わるか、嫌われて終わるか。ならば、どちらも許しがたいが当然、好かれて終わる方が良いに決まっている。

「お、おお」

 はい、とどうしても言えなかった。それが娘に対するせめてもの誠司の抵抗だった。
 定年退職して家の中で鼻をほじりながら、あるいは耳をほじりながら一日中テレビを見ているような、こもりきりで、無趣味で、人嫌いの人間が、明日は予定がある、と言ってもどうせ嘘がバレバレな訳であるし、病気や怪我をしない健康さが売りの誠司が突然、調子が悪くなった、という不器用な演技をしたところでそれもまた娘にはバレてしまう。無駄な抵抗が出来ない事くらい誠司も分かっていた。

 毎晩九時きっかりには寝る誠司は、風呂から出て布団に潜るもなかなか寝付く事が出来なかった。引きこもりの生活で腐りかけていた脳が突然に揺さぶられ、久々に思考回路が最大値まで上がったがゆえに興奮状態に陥り、そこから抜け出す事が出来ないでいたのだ。

 愛子、彼氏、二年間、デート、キス、セックス、デート、キス、セックス、結婚。

 明日なんて来てくれるな。
 死にたい。
 いや、そいつを殺してやりたい。

 結局、誠司はこの晩、一睡も出来なかった。

 
 会話がない。

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