小説

『オールドマン オブ マリッジブルー』伊佐助【「20」にまつわる物語】

 愛子のほっぺが段々と餅のように膨れ始めた。

「もっと色んな世界を見てから結婚を考えても良いんじゃないか、って父さんは思う。田中くんもお前と同い年のフリーターだっていうじゃないか。正社員の仕事が決まったようだけれどもだな、もう少し時間をかけて互いの事を見…」

「沢山見たからもう充分なの。私は彼以外に、これまでもこれからも好きになる人なんていない。だから私は彼と結婚するの」

「あそ。本当にそれで良いのか?」

「うん」

「ほんとうに?」

「うん」

「本当に本当に愛子はそれで良いのか?」

「しつこいってば」

「あそか。ごめん」

 愛子の頑固さは完全に母さん譲りだ。怒りを見せるまでの速さに至っては母さん以上かもしれない。これ以上言っても意味がない。これ以上言ってしまったら一週間、いや、今回ばかりはそれ以上に口を聞いてくれなくなるかもしれないし、駆け落ちして知らぬ間にいなくなってしまうかもしれない。損をするのは私自身だ。

 切ない。実に切ない。

 結局のところ、男は一本の線路の上に乗る電車だ。先にはいくつもの分岐点があるのだけれど、電車に選択肢は持てない。行く手の権限は女という運行管理課がすべてを握っている。電車は自由意志があってないようなものだ。
 母さんと口論になった時もそうだった。常に相手が望む答えを言ってやらねば女はそれを強く根に持つ。率直な意見を求められたのにも関わらずだ。それに、男が想像する以上に女は傷つきやすい。傷ついた女の恨みは何よりも恐ろしい。佳子から嫌というほど学ばされた。これは我が家だけの普通なのか。それとも私そのものの問題なのか。でも愛しているから仕方がない。本音を隠して女の気分を良くするのも男の仕事だ。思えば親父もそうだった。いつも妻の機嫌を伺いながら生きていた男だったけれど、そのおかげもあって家庭のすべてが上手く回っていた気もする。

 
 寝不足なのに寝付けない。誠司は目をつぶって布団の中で何度も左右に体を動かしては寝心地の良い位置を探すのだけれど、頭にこびりついた田中の顔が眠気の邪魔をする。自分の力ではどうしても田中の顔を抹消する事が出来なくて何かに助けをもらえないかと考える。でも一体、何がこんな哀れな男を助けてくれようか。誠司はふと思いついたように立ち上がって部屋の電気を付けて押入れの扉を開けた。普段はほとんど触る事のない下段の一番左奥に段ボールがある。八年前、この平屋に引越してきた時の段ボールだ。その中には過去の思い出が詰まったアルバムたちが眠っている。その段ボールを力いっぱいに引きずり出し、上のガムテープをひっぺがして適当にアルバムの一冊を手に取って開いてみる。愛子が中学校に上がった頃のものだった。当然の事ながら誠司の妻であり、愛子の母である佳子もそこにいた。

「昔はお父さん似だ、ってよく言われてたのに。気がついたら佳子、今の愛子はお前に似てベッピンさんだ」

 生き生きとした佳子の顔を見て誠司は自然と笑みが溢れた。
 校門の前で撮った家族写真。佳子と愛子は寄り添っているが、誠司だけ二人とは少し離れた距離にいる。

「そう言えば、この頃の愛子は父さんの事をやたらと嫌がってたな」

 小学五年の授業参観日。誠司は初めて授業中の娘の様子を見た。すると男子生徒の一人が誠司を見て、愛子ちゃんのパパはお爺ちゃんみたい、との一言に愛子は傷ついて、誠司が学校に来るのを嫌がっていた。男子生徒、教室、愛子の顔、当時の光景が誠司の頭の中で鮮明に生き返った。

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