誠司は水を失った魚のように息苦しく感じていた。
愛子の連れてきた彼氏だが何せ物静かな男で愛想の笑顔もなければ、愛想話すらもしない。
こんな男と一体何を話せば良いというのだ。普通なら好きな女の父親と初めて対面したのだから気を遣ってもっとそちらから話しかけてくるのが当然ではないのか。黒ぶち眼鏡の奥に見える目は瞬きもしなければ動きもしない。ずっと膝下の畳ばかり見続けている。気持ち悪いし、腹ただしい。うちの畳がそんなに珍しいか。そんなに見たって他人(よそ)様の畳と変わらない。それに、愛子がこの男の隣に居たから会話が成り立っていたが、そもそもお前は何をしにここへ来た。一切、自分の事を語ろうとしないではないか。何故ゆえにこの男の詳細や出会いのきっかけ、これからの目標云々の話を愛子からすべて聞かなければならんのだ。全く頼りにならん。「あ、初めまして、田中です」という言葉以外、まともにこの男の声を聞いちゃいない。
そんな風に不満を募らせ憤りを感じる誠司ではあるが、彼もまた人とうまく話せる人間ではなくて、どちらかと言えば小心者であって擦れた畳と暗い窓の向こうを交互に見ては自分のハゲた頭を撫で回したり、チラリチラリと男の様子を時折伺いながら一刻も早く便所から戻ってきてくれ、と娘に願うばかりだった。
「田中くん、外は暗いから気をつけて」
「はい、お邪魔しました」
初対面も終わって田中は家から消えた。愛子も、真司を駅まで送る、と言って共に出て行った。「気をつけて」と誠司は言ったが本心では車にでも轢かれて死ねばいいのに、と思っていた。普段は掃除をしない誠司だが今だけは無性に家中を綺麗にしたくなって、二人の姿が見えなくなったのを確認するや否や、窓という窓をすべて全開にし、外に出て田中の座った座布団の裏表を布団叩きで入念に叩いたり、家中に掃除機を掛けた。すると誠司の怒りもほんの少しだけ晴れた。
愛子は駅から帰ってくるなりテレビを見ている誠司の視界を遮って惚気顔でこう言った。
「お父さん、今日はありがとう。緊張したでしょ。彼もいつも以上に緊張してたわ。あんな彼、初めて見たから可愛いかったな」
可愛くない。どちらかと言えば気持ち悪かったな。
「彼、パパの事、とても優しそうなお父さんだね、って言ってたよ」
「へー。そんな事言ってたのか」
別に嬉しさの欠片もない。死んでくれればそれで良い。
「パパは真司の事、どう思ったの?率直に教えて欲しいな。どうだった?ねえ。どうだった?」
どうだったも何も、どうせ率直に言ったところで嫌な顔をあからさまに出すくせに。愛子も母さんと一緒だ。悪気なく素直な気持ちを言ったら気まずい雰囲気になった事は母さんとの間でも何度もあった。女はそういう生き物だ。難しい生き物だ。田中くんは正直言って気持ち悪かったね、田中くんに死んで欲しいと思ったよ、という率直な気持ちなんて言える訳がない。
「真面目そうな男だね」
それは誠司の感想として嘘ではなかった。真面目そう、には見えたからだ。
そんな単純な返事でも愛子は嬉しそうな顔をしていた。
「なあ、愛子」
「なに?」
「お前はまだ十九なんだぞ。先はまだまだ長い。二十で結婚なんて早いんじゃないか」
予想通りだ。