小説

『風の旅人』せん(『北風と太陽』)

「でもそいつ、いい奴だったし、バイト代出たら返すって言ってたから」風音が言わんとすることはわかっていた。手のひらは汗で濡れている。
「騙されたんじゃないの?」風音の言葉に、男の手に我知らず力が入る。
「…いや、あいつは昔から知ってるし」
「いい奴、いい奴って、そこまで親しかったの?それに、仮にいい人だったとしても人は変わるわ」
「俺の友達に、そこまで言わなくても…」
「ほんとのこと言ってるだけ。それにほんとの友達なら、逆にお金借りる?新人クンの方こそ、人がいいんだから。だから新人クンは―」
「俺の何がわかるんだよ!」
 酔いが回ったせいもあるかもしれない。店に誰もいなかったからかもしれない。だが、自分の心の中にあったもやもやを言い当てられ、「新人クン」という言葉についカッとなってしまった。
「そんなんだから、友達の一人もいないんだよ!」
 八つ当たりのように言い放ってから、しまった、と思ったが後のまつりだった。風音は一瞬黙ったあと「そうね…」とグラスを拭き始めた。男は代金をカウンターに置くと、そのまま店を後にした。風音を振り向くことはできなかった。

 金曜の夜。定食屋は込んでいた。男はカウンターで一人、ビールを飲みながら、本日のおすすめ定食のアジのひらきの身をほじっていた。
 あれから『SNACK 北風と太陽』には行っていない。
 男はやはり騙されていた。友人とはそれきり連絡が取れなくなっていた。後になって、その友人はかなり遊びまわっていて、あちこちに金を借りまくっていることを知った。もちろん劇団仲間の交通事故も、俳優ということさえ全て嘘っぱちだった。
「…先輩んとこの課長は優しくていいですよね。うちの課長なんか厳しくって。それに自分なんか、まだ新人扱いですよ。」
隣の席に座るサラリーマンが、どうやら先輩に愚痴っているようだ。緩んだネクタイはだらしなくよれている。まるでいつかの自分を見ているようだ。新人か…。自然と会話が耳に入ってくる。
「はあ、新人のお前にはあの人の良さは、まだわからないだろうな」
「新人って、先輩までやめてくださいよ」
「確かにうちの課長は優しいわな。みんなに優しいよ、いつでもね」先輩と呼ばれる男性がビールジョッキをぐいと一飲みする。

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