小説

『風の旅人』せん(『北風と太陽』)

「お前さ、北風と太陽って知ってる?」
男はどきんとした。つい聞き耳を立ててしまう。
「ああ、あのグリム童話の」
「ばか、イソップだよ。あれ思うんだけど、旅人のためを思ったら、どっちが為になるかってことだよな。そりゃ一時太陽に照らされて、旅人はあったかくていい気分になったろうけど、それはこれからも旅をする旅人にとってはどうなんだろうな。旅をしてりゃいろいろあるさ、きっと。のどかな暖かい日だけじゃない。いやむしろ、雨や風、雪が降って凍える日、そんな日の方が多いかもしれない。厳しい風の中、旅の厳しさや身を守る術とかを知った旅人は、後々北風の方に感謝するんじゃないかって思うんだよね」
「なるほど…。深いっすね」
「だろ?だからお前は新人なんだよ。そんで…、なんの話してたんだっけ」
「先輩んとこの課長と、うちの課長の…」
「そうそう!だから―」
 男はもう、聞いていなかった。
 馬鹿だ!俺は馬鹿だ!あの時も。あの時だって…。男は駆け出していた。
 俺は何もわかっちゃいなかった。
 いや、違う―。
 甘やかされたくて、厳しいことから目を背けていただけだ。
 あんなに俺のためを思ってくれてたのに。
 向かい風の中、男は走った。肺の中に冷たい空気が流れ込む。
 そして『SNACK 北風と太陽』の前に立つ。そこには閉店の紙が貼られていた。

 たまの出張先で繁華街を歩くと、自然と一本奥の道を選ぶクセがついていた。今日は久しぶりにこの町にやって来た。まだ、買ったばかりのダボついたスーツに、なんの術も身に付けていない、そんな甘くて苦い若い頃、そう新人の時に住んでいた町。あれからどれくらい経ったか。頭に白いものが混じり、長年履きこんではいるが、綺麗に磨かれた靴をコツコツと鳴らしながら懐かしい道を歩く。木枯らしの季節、男はコートの前をギュッと閉じる。コートの中は温かい。身体にフィットしたスーツは、今や堅牢な鎧となり、男を隙なくしっかり守っていた。
 見上げると、鉛色に空を覆い隠していた雲は風に飛ばされ、星が瞬いていた。男の耳元を一陣の風が吹きぬける。
 カランコロン。
 男は笑みを浮かべ、ゆっくり振り返る。そこには、ぼんやりと黄色く輝く看板があった。

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