小説

『風の旅人』せん(『北風と太陽』)

「じゃあ、風音さん、元気でね」
「陽菜には会っていかなくていいの?」
「いや、いいんだ。風音さんと話せてよかった」
 フッと風音の表情が緩んだ。いつもあまり表情を変えない風音の薄い唇が微笑んでいる。まるでどこか懐かしいものを見るようだ。
 中年の男性は去り際、男の肩をポンと叩いて出て行った。取引先か何かで見かけた人だろうか。テーブルには、こないだ男に出されたのと同じ漬物のお通しが置いてあった。
 中年の男性と入れ違いにドアのベルが鳴り、軽やかに陽菜が入ってくる。男の隣に置いてある花束に「わあ!素敵!」と声を上げる。男は立ち上がり、
「陽菜さん、来週誕生日だよね?俺、出張で来れないから、ちょっと早いけど」陽菜に花束を渡す。陽菜は花束を見つめ、にっこりした。
「じつはね、今日は風音のお誕生日なの。だから、これは風音のお花にしよ。はい」陽菜は嬉しそうに風音に花束を差し出す。え?そうだったんだ。男は風音を見るが、風音は花束を受け取ろうとしなかった。
「せっかく新人クンがあなたに用意したものじゃない」風音が怒るように言うと、陽菜はシュンとしょげてしまった。気まずい沈黙が流れる。男は慌てて
「じゃあお店に飾るっていうのはどうかな?風音さんと陽菜さんの誕生日を祝って、二人のこの店に花を添えるっていうのは」と提案してみた。
 陽菜の顔がパッと輝く。「こんな素敵なお花、みんな喜ぶよ!」とさっそく、どこに飾ろう、とウキウキ店の中を歩き回っている。風音が男にいいの?と呆れたような視線を向ける。男は笑いながら、いいんですというふうに軽く手で制した。あれは陽菜にあげた花だ。陽菜が喜ぶならそれでいい。陽菜の優しい気持ちに水を差したくなかった。
「ねえ!ここなんてどうかな?」無邪気に笑う陽菜の隣に咲き誇るひまわりがあった。風音は肩をすくめ、いつものようにグラスを拭き始めた。

 それからも、男は『SNACK 北風と太陽』に週一、金曜日の会社帰りに訪れていた。だがその週は土曜日に私服で訪れた。店に客は誰もいなかった。
「わあ、新人クンの私服姿、初めて。スーツも似合ってるけど、私服もいいね」陽菜が声を上げる。ははと笑いながら、いつもの席にどかっと腰を下ろす。馴染んだ椅子の感触に、身体の中に溜まった疲れみたいなものがどっと染み込んでいくかんじがした。いや、疲れているのは身体ではない―。

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