小説

『主婦とスキャンティ』緋川小夏(『シンデレラ』)

「それじゃ、行ってくるね」
 朝早く、雅子は小さなボストンバックひとつ持って自宅を出た。
 立ち止まって振り返ると、アパートのベランダから身を乗り出すようにして遥香が手を振っている。それに応えて小さく手を振り返すと、雅子は最寄り駅に向かってずんずんと歩き出した。
 ゆうべは布団に入ってからあれこれ考えてしまって、ほとんど眠れなかった。結局、どうしようかと家を出る寸前まで迷っていたけれど、遥香やママ友に背中を押されて、しぶしぶながら温泉ツアーに参加することを決意したのだった。
 電車に乗りターミナル駅に着くと、駅前のロータリーでは大きな観光バスが雅子の到着を待っていてくれた。
「よ、よろしくお願いします」
 チケットを添乗員に見せ、手荷物を預けてバスに乗り込む。車内は同世代の女性客がギラギラしたエネルギー漲らせながら座っていて、むせ返る香水の匂いと強烈なオーラに雅子はすっかり圧倒されてしまった。
「ツアー参加者の皆さま、おはようございます。それでは全員お揃いのようですので出発致しまぁす」
 添乗員のアナウンスが入り、バスは温泉ホテルに向けてゆっくりと走り出した。
 ジュンのショーが開催される温泉ホテルは、ここからバスで三時間くらいかかるらしい。もう戻れない。すっかり怖気ついてしまった雅子は少し泣きたい気持になりながら、唇を噛みしめた。
「お宅は、どちらからいらしたの?」
 車窓を流れる景色をぼんやりと見つめていたら、通路を挟んで反対側に座っていた品の良さそうなマダムに声を掛けられた。
「あ、わたしは双葉台のほうから……」
「双葉台って双葉台団地?」
「そうです」
「そうなの。わたしは桜沢からの参加なのよ。お一人?」
「はい」
「あら! わたしも一人なの。名前は田崎玲子。良かったら仲良くして下さいね」
「こ、こちらこそ!」
 聞けば玲子は、学生時代から筋金入りのジュンのファンなのだそうだ。今の上品な姿からは想像できないが、ファンクラブに入り歌番組の公開録画があるとお揃いのハッピを着てペンライトを振りながら絶叫していたらしい。
「最近はテレビの歌番組も少なくなって、なかなかジュンの歌声を聴く機会がなくなっちゃったわよね」
「ですよね。私も今回、生のジュンを見るのは本当に久しぶりなんです。高校生の頃の武道館以来かな……」
「あら、そうなの。実は私、このツアーに参加するのはこれで3回目なのよ。ホテルの宴会場だとジュンとの距離も近くてアットホームな感じで凄くイイわよ!」

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