小説

『ベーカリー ヘクセンハウス』鳩羽映美(『ヘンゼルとグレーテル』)

窓ガラスに張り付く私の姿を認めると、老婆は少し驚いた顔をして、店の扉を開けてくれた。
「なんだい、こんな時間に」
「あ、あの」
「入りな」
店内は暖かく、焼きたてのパンの匂いで満ちている。棚にはパンが並んでいるが、以前来たときよりも明らかに種類が少なかった。
「今、ちょうどあんたの好きなやつが焼けたよ」
そう言って老婆は、私にパンを手渡す。パンを掴む指も伸ばした腕もやっぱり枯れ枝みたいで、頼りなかった。
渡されたのは、クリームも林檎も入っていない丸いパン。私が最初に食べた、この店のパン。
あの日、パンをオーブンから出してくれと叫んでいた、老婆の声。それから、「転んだだけだ」という言葉。
手のひらに乗ったパンは熱いくらいで、私の冷えた指先をじんじんと痺れさせる。
老婆の命が入ったパン。

「なにしてんだい、早く食べな」
「おばあさん」
「ん?」
「私、仕事してないです」
老婆はちらりと、その鋭い双眸で私を見た。
「半年、仕事してないです。そのあいだに20kg太りました。コンビニとかスーパーで食べ物ばっかり買って、ぶくぶく太って、こんなにみっともないのに、食べることがやめられないです」
ぽこぽこと、溢れるように言葉が口から出ていく。
「わたし、私、は」
「……」
「私は……?」
なにを言いたいか分からなくなり、私は首を傾げる。喉が絞めつけられるように痛くて、熱いものが目頭までせり上がる。
「私は、私には、価値がない」
嘘ばかり吐き出す口で食べ物をかじり、底なしに広がる空間にそれを落とす。落とされたものはただ、私の身体を醜く膨張させるだけ。
「おばあさんの作ったパンを食べていたのは、そういう人間です」

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