小説

『ベーカリー ヘクセンハウス』鳩羽映美(『ヘンゼルとグレーテル』)

しかしその日から3週間、ヘクセンハウスに明かりが灯ることはなかった。
何度訪れても店は閉まっていて、時間が悪いのかと思い今日は無理やり朝早く起きて訪ねてみたが、やっぱりあの老婆の姿はなく、主人を失ったお菓子の家がそこにあるだけだ。
店の前に佇む私の後ろを、若い主婦が数人通り過ぎようとして、ふと立ち止まる。
「ここのパン屋さん、ずっと閉まってるわよね」
「なんかね、おばあさん入院してるんですって」
「そうなの?」
「うん、前もこうして閉まってることあったんだけど、今回は長いわねぇ」
「まぁ、ずいぶんお年だもんね」
「ね。そろそろまぁ、お店に立つのも難しいんじゃない?」
そこまで聞いて、私はぐるりとその主婦たちのほうに身体を向ける。
詳しい話を聞こうと口を開きかけたが、主婦たちは私の頭からつま先までをさっと眺めると、足早に立ち去っていってしまった。
太った身体、汚いねずみ色のパーカー、ぼさぼさの長い髪、辛気臭い顔。
私の、姿。
胃のなかが凍ったような感覚がして、私はその主婦たちを追いかけることなく、そのまま家に帰った。

部屋にこもり、夕方に起きて、ひどくお腹がすいたらコンビニやスーパーで食品を買い込んで胃のなかに詰め込む。
以前と変わらない私の生活。
変わったのは、老婆の悪口を聞けなくなったことと、あの不思議においしいパンを食べられなくなったことだけ。
そういえば、老婆の店のパンを食べるようになってからは、暴飲暴食の回数が減っていたような気がする。まぁ、体重はちっとも変わっていないのだけれど。
あぁ、今日も、なんだかとてもお腹がすく。
私は財布を掴み、外へ出た。
まだ薄暗い夜明けの街。自分の太い足とアスファルトを睨みながら歩く。変わらない、なにも変わらない。
しかし不意に、香ばしい匂いが鼻先に届いたような気がして、私は顔を上げる。
藍色に染まる空気のなか、幻のようにぼうっと、あのはちみつ色の明かりが灯っていた。

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