小説

『ベーカリー ヘクセンハウス』鳩羽映美(『ヘンゼルとグレーテル』)

意味は「お菓子の家」。もしくは、「魔女の家」ということらしい。

それから数日後の夕方。
私はまた、その「お菓子の家」という名のパン屋の前に立っていた。
あれからというもの、まるで取り憑かれたかのように、あの老婆の焼いたパンが食べたくてたまらなかったのだ。
なにかがおかしい。やっぱり、本物の魔女なのかもしれない。
しかし、ここまで来たはいいものの、あの老婆に再び会うのは少し憂鬱だ。はっきりものを言う人は怖い。そういう人の前で、私はいつもなにも言えないまま粉々にされてしまう。
そうしてしばらく窓から店内の様子を伺っていたが、不意に、厨房から老婆が出てきた。
そして窓ガラス越しに私の姿を認めるやいなや、ものすごいスピードでどんどん歩いてきて、バーンと扉を開いた。
「早く入りな!でかい図体でうろうろしてちゃ他のお客さんの邪魔になるだろう!」
……ほら、やっぱり。

そこから老婆は一方的に「なんで夕方に来るんだい、ほとんど売り切れだよ」とか「うちのパンはうまいだろう、絶対また来ると思ったよ」とか言いながら、私の手にトレイを持たせ、棚に残っていたパンをひとつ残らず乗せていった。
「いや、あの、こんなに……」
「いいから持って行きな」
老婆はテキパキとパンを袋に入れ、レジを打つ。
その金額が明らかに安いことを指摘したら、「いいんだよ、売れ残りだから」と言われた。
老婆はパンを渡しながら、私のことをその大きな目でじろじろと眺める。
「そういやあんた、仕事はなにしてるんだい。こんな夕方に、そんな雑巾みたいな格好して」
雑巾。確かに、私は部屋着と外着の兼用になってしまっている、ねずみ色のパーカーを着ているけれども。
「今日は、休みで」
無職ですと言えず、嘘をついた。
息をつめて返事を待ったが、老婆は「ふーん、そうかい」と雑な返事をしただけで、それ以上なにも聞かなかった。
店を出ると辺りはすっかり暗く、よその家から夕飯の匂いがした。
振り返って見た店内の明かりが、熱々のはちみつのようにとろりと光っている。
「またおいで」。そう言った老婆の声を思い返しながら、パンの入った袋を揺らして家に帰った。

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