小説

『バー・アカシヤ』海野権蔵(『奥の細道』)

 そしてまた川は流れ始めた。
 町から少し離れた山あいを流れる、水の澄んだ小さな川だった。
 山の端を染めていた夕映えの赤が消えていき、山あいの渓流にしっとりと宵闇が訪れる頃。やや湾曲した川の流れの脇にある小さな空き地のような場所に椿の花が咲いていた。夕暮れを追い掛けるように急速に冷え込んでいく湿り気を帯びた空気の中、わずかな残照がその椿の花弁の紅を浮かび上がらせている。次第に重くなっていく空気の動きにつられたのか、こんもりと咲き誇る垣の中の一輪が力尽きるように地面に向かってすっと落ちて行く。名残惜しげに天を向いて落ちて行くその一輪の椿が地面にすとんと着いた時、その地面に横たわった椿の傍らに女が現われた。
 大きな升目の格子柄の着物に、素足に赤い鼻緒の黒い下駄を履いた女は、左手に大きな番傘を、右手に不思議な色に燃えるランプを持っている。微笑んだのか、唇の端を持ち上げながらその紅い花に一瞥をくれ、それでもやはりやや怖い顔をした女は、ふわりふわりと歩くでもなく跳ぶでもなく渓流沿いを下り始めた。あたりはもうすっかり暗闇に包まれ、聞こえるのは静かな川のせせらぎの音だけになっている。
 女は、土手の上に大きなアカシヤの木が立っている場所に立ち止まり、ちらと辺りを見回すと、ふんわりと微笑みながら番傘をひろげて脇に置いた。そしてその左手で山側の闇を撫で回すようにあたりを探ると、そこにどっしりとした黒いカウンターが現われた。鏡のように磨き込まれ、手が吸い込まれそうなほど暗いそのカウンターの表面が、ランプに照らされて鈍く光っている。女は右手に持ったランプを高く掲げてからその上に置いた。女は山を背にして椅子に座ると背後の暗闇から灰皿を出して煙草に火を点ける。ふうっと気怠げに煙を吐き、これも叉背後の闇の中から取り出した、僅かに虹色に輝いて見えるガラスのデキャンターから、表面に桜の花びらが舞っている小ぶりのグラスに薄青い酒を注ぐ。女はゆっくりとそのグラスに口をつけた。カウンターに置いたランプの光がすっと輝きを増し、暗闇の渓流にそこだけぽっかりとお店の形を浮かび上がらせた。入り口に置いた番傘には、いつの間にか屋号が灯っている。

 女はくいと一杯目を飲み干し、叉酒を注いだ。ゆっくりと時間が流れていく。
 女は、ただぼんやりと昔のことを思い出していた。時間の流れは次第に曖昧になっていくが、どうしてもぬぐえぬ、こぼれた刃物で切られたかのようなひりひりとした痛みは今も生々しく心の奥底に残っている。
 女が女学校を出た頃のこと、父親が相場に手を出して大きな借金を作った。危ない筋の借金に、父親は仕方なく娘を売る気になったらしい。そんな時、女が女衒に売られそうになった所を助けてくれた老人がいた。地主として名の知れたその老人が経営するバーで、雇われマダムをしてみないかという話だった。売られるよりはマシと、女はその話に飛びついた。女はそれほど美人ではなかったが、切れ長の大きな目が特徴で、流行りに合わせた短い髪とあいまった上品な色香が客に受けた。

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