元々勝ち気な性格な上に女学校も出たせいか、才女を気取っていた女にとっては夜の酒場で働くというのは屈辱ではあったが、思いの外そんな夜の世界の水に合ったのだろう。彼女目当ての客の入りは順調で、なんとか糊口を凌いでいた。
ある夜、ふらりと店にやってきたその若い男は、あまた居る客の一人だった。彼は書生で、明恵とかいう昔のお坊さんが好きだといい、酒を飲みながらよくそんな話をしてくれた。ここらでは珍しい、同い年という気安さから店の外でも会うようになった二人は、いつしか互いに強く惹かれ合い、抜き差しならぬ関係になるのにそれほど時間はかからなかった。
ある夜のこと、父親が酔っ払って店に来た。話を聞くと叉失敗をしたのだという。父親は、あの老人のお妾さんになってくれと泣いて頼んだ。話を聞いているうちに女には腑に落ちるものがあった。どうやら最初の借金もマダムの話も、あの老人が仕組んだことだったらしい。女は悩み、書生に相談した。
黙って話を聞いていた書生は優しく彼女に言った。
「それでは私と駆け落ちをしましょう」
落ち合うのは町外れの川の上流に咲くアカシヤの前で、月が昇る時刻にと決めた。
その日、女はこっそりと店を抜け出して夕暮れの道を急いだ。もうすぐ月が昇ってくる。女が息をきらせてアカシヤの木の下に着いた時には、まだその男は来ていなかった。恋という牢獄に閉じ込められて身動き一つ出来ず、もうどこにも帰るあての無い女はただひたすらに待った。そして待ち続けた。
ジッっというランプの炎の音にマダムは我に返った。二杯目のグラスを口へ運ぶ。ふと見上げると、月が山の端から顔を出していた。
ほのかな月の光が清流の瀬の泡と淵の暗がりを際立たせている。その光のあわいの中を、まだあどけない、少女といっても通るくらいの女が上流から漂ってきた。透き通るような真っ白な着物の裾には赤い小花の紋が散っている。膝まで届く長く真っ直ぐな黒い髪を持った少女だった。足には足袋だけを履き、手にはほのかな明かりを放つ宙に浮いた袋を曳いている。少女は精気の無い表情で、渓流の流れの中に顔を出している石の上を飛びながら水の上を渡ってくる。時折立ち止まっては何かを探るように辺りを見回し、木の根や川の淵を覗き込んでいる。その闇の中に更に暗く濃い何かを見つけると、渇望がちらと少女の目に宿り、少女はしゃがみ込んで白い手を伸ばし、その蠢く澱みの中を手探りした。すっと引き抜いた手に何を捕まえたのか、じっとその何かを見つめていた少女は、何に失望したのか叉精気の無い顔に戻ると、その何かを浮かぶ袋の中に放り込んだ。袋はかすかに表面が泡立つように光っている。大きさは少女の髪の長さくらいあろうか。少女の膝の高さにまで浮かんだその袋は、意志を持っているかのようにあちこちに漂い出そうとしているが、ぬめるような光沢の糸を握る少女に馭されている。