小説

『春色のマニキュア』緋川小夏(『マッチ売りの少女』)

「お待たせ。それじゃあ行きましょうか」
 仁科さんに施錠されていたドアを開けてもらい、エレベーターに乗って正面玄関に出た。母と一緒にヒマワリ棟から出たのは、ここに入所してから初めてだった。
「それじゃあ、戻られたら受付に声をかけて下さいね」
「はい、わかりました。いってきます」
 母に歩きやすそうな上履きタイプの靴をはかせて手を取った。久しぶりに握った母の手はビックリするくらい小さくて、ほんのりと温かかった。自動ドアの前で振り向くと、仁科さんが笑顔で手を振っていた。
 外に出るなり春の香りを纏った風が、私たちを出迎えてくれた。
「うわぁ、桜の花きれいだねぇ……本当に満開。まさに見ごろだね」
 見上げると花弁をたわわにつけた無数の枝が、空をピンク色に染めている。枝は風が吹くたびにその身を震わせて、花びらを雪のように舞わせた。
 ところが母は目の前に広がる満開の桜を愛でるでもなく、その場にしゃがみ込んでしまった。
「あれっ。お母さん、何してるの」
 母は頭上の桜には全く興味を示さず、無言で地面に落ちた桜の花びらを拾っていた。
「やめなさいよ、落ちていた花びらなんて汚いわよ。ほら、泥がついてるってば」
 うまく力加減の調整ができないせいか、母の指先は見る見るうちに土で黒く汚れていった。それでも母は意に介さない様子で、一心不乱に花びらを集めている。
やがて左手一杯に花びらが集まると、大切そうに右手のひらで蓋をして満足そうに立ち上がった。
「ったく、しょうがないなぁ……」
 せっかく仁科さんが外に出る許可をもらってくれたのに、花びらを拾って帰るだけでは何とも味気ない。そう思った私は、正面玄関の横にある庭に建てられた小さな東屋に母を誘った。
「お母さん、ほら見て。ここすごく眺めがいいわよ」
 休憩用の東屋からは、春色に霞む町の景色が一望できた。
 母の認知症が進んでからは、こんな風に景色をゆっくり眺めることなんてなかったような気がする。いつも何かに急かされていて、気持ちにも余裕が持てなかった。けれども久しぶりに心が洗われる景色を見て、私は気持ちがすっとした。
「あのね、アカアサンにも塗ってあげるネ」
「えっ?」
「マニキュア。ほら、手ぇ出して」

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