そこへ、いつも母の世話をしてくれている女性職員の仁科さんが通りかかった。仁科さんは私の娘と言ってもおかしくない年齢のはずだ。大変な仕事だろうに、いつも笑顔で接してくる仁科さんに対して、私は心から頭が下がる思いだった。
「違いますよぅ。あのね、この人は娘じゃなくて、わたしのオカアサンだよォ」
仁科さんに対する母の言葉に驚いて、私は一瞬、目を丸くした。
今日の配役は、お母さんか……。
前回会ったときは幼馴染のユウコちゃんで、その前は母の妹のミソノ叔母さんだった。母が教師をしていた頃の生徒の名前だったこともある。いいかげん慣れなくてはと思うのだけれど、その都度違う突拍子もない母の反応に、なかなか気持ちが追いつかない。
「あ、あの、いつも母がお世話になってます」
私はその場に立ち上がり、日ごろの感謝を込めて仁科さんに一礼した。
「すみません、母がまたおかしなことを言って……」
「大丈夫です。ちっともおかしくなんかないですよ。きっとヨシノさんも、娘さんがいらしているのでご機嫌なんでしょうね」
「そうでしょうか……」
私はせり上がってくる釈然としない想いを慌てて飲み込んだ。
「そうそう。ヨシノさんは桜がとっても好きみたいですね。近頃はいつも、ご自分の部屋のベッドの上から桜の花を眺めていらっしゃいますよ」
「桜の花、ですか」
そう言われて、さっき母が一人でベッドの上からじっと外を見ていたことを思い出した。そうか、あれは桜の花を見ていたのか。
この施設は建物全体をぐるりと桜の木に囲まれていて、遠くから見るとソメイヨシノの淡いピンク色にふんわりと包まれているように見える。私もここに来るときに目にしていたはずなのに、母が桜を見ていたなんて思いもしなかった。
自らの忙しなさを恥じながら、改めて窓の外に視線を移す。そこにはやわらかな陽射しを浴びた満開の桜の花びらが、春の風に吹かれて淡い輝きを放っていた。
「桜、ちょうど満開ですね」
「そうですね。今日は天気も良くて絶好の花見日和ですよ。ねぇ、ヨシノさん」
「サクラ……さくら……」
仁科さんに促されて、母も目を細めて窓の外をうっとりと眺めている。自分と同じ名前の花に、老いた母は何を重ねているのだろう。
「それで、あの、母のマニキュアのことなんですけど……」