小説

『夜鷹の星』春日部こみと(宮沢賢治『よだかの星』)

 ――もういい。逃げよう。ここではないどこかへ。
 弱い夜鷹には、この村を出て独りで生きていく勇気などなかった。けれども、鷹の言う辱めを受けた後、夜鷹への虐めは更に酷くなるだろう。神から授かった名を奪われたものなど、塵芥にも等しい。今は心無い悪口や、石をぶつけられる程度で済んでいるが、きっと憂さ晴らしに折檻くらいは当たり前にされるようになってしまうだろう。
 ――それくらいなら、おれのこの、名前……唯一残された誇りを守って、独りで死んだ方がずっとましだ。
 夜鷹が必死になってよたよたと逃げる様を、鷹が大声で笑った。
「ははははっ……! 逃げるのか、夜鷹!? その不格好な足で、このおれから逃げられるとでも思うのか!」
 夜鷹は構わなかった。悪態など、もうどうでもいい。
 逃げなくては。
 逃げなくては。
 それだけを思い、死ぬ物狂いで痩せた足を動かして走った。
 けれど、夜鷹の思いは背後からいきなり掴まれた首に、破られた。
「ぐぅうッ」
 鷹が太い腕を伸ばして夜鷹の首を掴み上げ、まるで狩った兎を吊るすようにして掲げた。
「ぅううッ!!」
 鷹の手はいかつく大きく、細い夜鷹の首など一周できそうだった。食い込む太い指に呼吸を阻まれて、夜鷹は苦しさに四肢をばたつかせる。
 するとまたそれを笑う低い声が背後から聞こえた。
「ふははっ……苦しいかぁ、夜鷹? ほんとうに、お前はなんて醜いんだろう。怯えてこちらを盗み見る卑屈な顔も醜いが、そうして涎を垂らして苦悶する顔も、見られたものじゃあないなぁ」
 クツクツと喉を鳴らす声は、これ以上はないというほど愉しそうで、夜鷹は苦しさと悔しさに涙を流した。
 やがて気が済んだのか、鷹は捨てるようにぼとりと夜鷹を離した。
 放り出され地に突っ伏しつつ、盛大に咽る夜鷹の脇に、鷹が膝をついた。髪を掴まれグイと仰向かされる。
涙の浮かんだぼやけた視界に、鷹の金色の瞳があった。
笑んでいるのに、その金は突き刺すように鋭い。
――猛禽類の眼だ。
弱き獣を喰らう、残酷な空の王者。

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