小説

『ブラックサイドカンパニー』小泉麦(『桃太郎』『金太郎』『浦島太郎』)

「はい、誠に申し訳ございません。今、早乙女は手が離せない状況でして。はい、爺も高齢でして粗相もあったかもしれませんが、誠心誠意尽くしております。はい、熊のほうはいかがでしょうか。我が社一押しでございます。時代遅れだなんてとんでもない! お客様もきっと満足していただけると思います。はい、すぐにご用意しますので……いえ、私の給与をカットで。大丈夫です。大丈夫ですから!」
 鬼瓦はひっきりなしにかかってくる電話にすべて応答していた。鬼部署のほかの社員は全員出払っているようで、ホワイトボードには直行直帰の文字が踊っている。パンク状態なのは一目瞭然だ。社員に激務を強いるとは、と桃田の中で正義の炎が上がったが、すぐにそれは頼りなく揺らいだ。鬼瓦もまた、身を削っていることは明白だったからだ。
 鬼瓦は桃田に気づくと、一時的に電話を他部署に転送させた。「忙しいな」と桃田がつぶやくと、「いやあ、実にならぬ電話ばかりです。週明けだから多いだけですよ」と謙遜した。いや、真実なのかもしれない。
「悪が……見つからない」
 桃田は悔しさをにじませながら現状をありのまま報告した。どの部署にも改善点はあるかもしれないが、それは罰するほどの悪には到底なりえない。
「むしろ全員が全員正しいことをしてる……皆が正義なんじゃないか?」
「それは違います」
 鬼瓦はきっぱりと言いきった。その力強さに桃田は驚いた。
「我が社は敵役を演じるのが仕事ですが、それは世の中に絶対的な悪なんか存在しないからです。御社も同じです。絶対的な正義もまた存在しないのです。正義も悪も非常に頼りない概念です。白黒つけることのわかりやすさや容易さは時に必要ですが、そんなふうに割りきれる時代はもうとうに終わっているんです。どれだけ皆に支持されるリーダーがいても万人受けはありえない。どんな極悪人がいても一から十まで間違ってるとは言えないんです。勧善懲悪なんて、現実にはない」
 淡々と語りながらも、鬼瓦はどこか寂しそうだった。自分が歩んできた道を根底から覆すような意見でもあるからだ。それなりの信念を持って励んできただけに、時代の流れには目をつぶりたくなることもあった。しかしつぶっていたところで、事態が好転するわけでもないし、何より自分自身の了見を狭めたままで終わるのは嫌だった。
「じゃあ、僕たちはどうすればいいんだよ……正義は正義、悪は悪で棲み分け、きっちり線引きしてきた僕たちは!」
 桃田は絶叫した。経営のイロハどころか世の動向も知らない若者は、ほかの道を選ぶなんて想像もできなかった。鬼瓦は「先代とも話していたことですが」と前置きしてから、
「正義と悪で新しい時代を一緒に走りましょう。白か黒でしか基準になかった私たちだからこそ、その中庸となる部分を見極める力があると思っています」

1 2 3 4 5 6 7 8 9