小説

『囚われのセリヌンティウス』石川哲也(『走れメロス』)

 槌で頭を打たれたかのような衝撃が走る。
 私は当然メロスが戻ってくるものだと信じ、時が来れば母のもとに帰れるのだと露ほども疑わなかった。だが、本当にメロスは戻って来るのか。もし友が逃げてしまったのならば、私は殺される。宣言通り、王は形だけ悲しそうに亡骸となった私を見つめるだろう。友人たちは心の底から嘆き悲しむだろう。だが母は、老いた母は、深い谷に身を投げてしまうかもしれない。流れの速い川に沈むことを選ぶかもしれない。母には私しかいない。私がいなくなれば生きてはいけないのだ。許してください。母のことをもっと考えなければいけなかった。メロスは友だ。かけがえのない友だ。今でも信じている。メロスが逃げるはずはない。だが、どんな勇者も心が弱くなるときがある。そう、逃げたのではない。前に進めなくなってしまったのだ。風のように駆けることが怖くなってしまったのだ。
 身代わりとなり三日。初めて友を信じる気持ちが弱くなった。
 沈みゆく夕日に刑場が焼ける。血を浴びるまでもなく、磔台も赤く染まる。陽はさらに傾き、影が伸びる。黒く長い指先が群衆に届く。もう母に触れることはないだろう。せめて影だけででも別れを告げたい。
 天を仰ぐ。星が瞬き始めた。メロスは来ない。群衆が揺れる。別れの瞬間が近づく。友の姿を探す。懸命に探す。処刑人が動き始める。王が身を乗り出す。悲しげな顔で、歓喜の目で、私を見つめる。フィロストラトスは戻ってこない。メロスは来ない。
 力を失った陽に代わり、篝火が焚かれる。群衆の目に私がはっきりと見えるよう、ごうごうと焚かれる。石のメロスは舞台から降り、暗闇に溶けこむ。私は一層高く吊り上げられた。風が心地よい。友人の嘆き、母の悲しみ、メロスの裏切りが頭をよぎる。天を仰ぐ。すっと星がひとつ流れ落ちる。残酷なまでに美しい。
 なぜ、私は生かされているのか。既に陽は落ちたのではないのか。磔台を見上げる王と視線が交わる。その眼は期待に満ちていた。友を罵り、命乞いをする私の言葉を今か今かと待ち望んでいた。
 途端、胸の内のざわざわした感じが失せる。恥ずかしい。顔が赤くなるのが分かった。私は何を考えていたのだ。メロスが裏切るはずがない。遥か彼方、地平線に一片の赤みが残っている。そうとも。メロスは今も駆けているのだ。
 痺れを切らしたのか、王が残念そうに刑の執行を宣言する。処刑人が動き始める。群衆は私を見つめている。そのとき、静まる刑場にかすかなざわめきが起きた。人々を押しのけ、磔台に近づこうとする男がいる。何事か叫びながら、泳ぐように前へ進もうとしている。メロスだ。素っ裸で、薄汚れて、雄々しさの欠片もない。それでもメロスだ。やはり友が裏切ることはなかった。涙が頬を伝うのが分かった。命拾いしたからではなく、友が約束を違えなかったことが嬉しかったのだ。
「待ちくたびれたぞ、メロス」
 まったく、メロスにはいつも驚かされる。

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