小説

『囚われのセリヌンティウス』石川哲也(『走れメロス』)

 双眸は彼方を見つめ、風に髪は後ろへ流れ、衣は千切れそうになりながらも辛うじて身体を覆う。筋肉は盛り上がり、激しい脈打ちが聞こえてきそうだ。雄々しいその姿は、勇者ヘラクレスを彷彿とさせた。
 石像を見たらメロスは照れるかもしれない。それでも喜んでくれるだろう。私のことを誇らしく思ってくれるに違いない。そんな空想に思わず笑みがこぼれる。緊張が解け、一息つく。久しぶりに呼吸をした感じがする。空気に湿り気を感じ、外では雨が降っていることに今更気づく。現実に引き戻された途端、空腹感に襲われた。牢獄には似合わない上等なワインと肉、パン、果実をむさぼる。石粉で口の中がじゃりじゃりしたが、まとめて呑みこむ。腹が落ち着くと同時に暗闇が押し寄せてきた。霞む視界の中、メロスが天に向かって駆けているのが見えた。自分が横倒しになったことに気づかないまま、私は意識を失った。

「ほう、良い出来ではないか」
 称賛する声で目覚めた。鎧に囲まれた王が、石のメロスを間近で見ていた。
「まだ完成してはおりません」
 返答のないはずの独り言に私が反応したためか、ディオニス王は滑稽なほどのけ反る。そればかりか、槌を握りしめて立ち上がった私を見て、慌てて男たちの背に隠れた。
「お、おまえ、その槌で何をするつもりだ?」
「石像を仕上げたいだけです。他に何をするとお思いか」
「わしの命を狙っておるのではないのか、そうであろう」
 狂王への侮蔑が憐れみに置き変わる。なんと小心な王だ。
「そのようなこと考えておりません。そもそも、王は多くの兵を従えながら、一介の石工を怖れる必要がありましょうか」
「うるさい、黙れ! おまえなんか信じられるか!」
 ディオニス王の声は上ずり、小刻みに揺れる目は私の手から離れない。仕方なく、私は愛用の工具をそっと床に置き、両手を上げた。
 私に害心のないことを認めたのだろう。王は尊大な態度を取り戻した。
「まあよいわ。ところで、その石像をわしに差し出せば、命を助けてやっても良い。おまえを処刑する代わりに、民衆の前で石のメロスを打ち砕いてやる。なかなかの余興ではないか」
「私は友のために石を打ったのです。王に献上するためではありません」
「話の分からぬやつだ。メロスは帰っては来ぬ」
「メロスは来ます。必ず戻ります」
 王は黙り込む。私の信念に心が揺らいだのかもしれない。だが、疑念に凝り固まる暴君の魂を氷解させるまでには至らなかったようだ。

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