小説

『囚われのセリヌンティウス』石川哲也(『走れメロス』)

「そのことか。それはメロスと交わした約束があるからだよ」
「約束と言いますと?」
「聞かせてあげよう。私が石工の修行をはじめて間もないころの話だ。私は思うように仕事が出来ず、道具が悪い、師匠の教え方が悪いと情けない言い訳ばかりしていた。本当は己の技量が未熟なだけなのに」
 百年も昔の出来事のように、私は語った。
「私が悩んでいることを耳にしたメロスは、素晴らしい工具を贈ってくれた。ただ、そのために友は羊を何頭も手放さざるを得なかった。とてもよく懐いた、お気に入りの一頭もその中にいたとのことだ」
 当たり前のことだが、良い道具を手に入れたからといって急に腕前が上がることはなかった。私の仕事ぶりは変わらず、とてもではないが友に顔向けできなかった。それでもメロスは、くすりと笑って、「君が新しい道具に馴染むのも、子羊が大きく育つのも、同じく時間がかかるのだ」と牧人らしい言葉を残し、村へ帰って行った。 
「メロスは、私が一人前の石工になると信じていたのだよ。そしてこうも言った、いつの日か自分のために腕前を見せてくれないかと」
 私は使い慣れた道具を手に取り、石に向き直った。

「食事も睡眠もとらず、ひたすら石像を彫っているというのか?」
 見張りから報告を受けたのか、ディオニス王が牢を訪れ、冷えきった料理や石粉まみれのワイン壺を呆れたように眺めた。
「そのように根を詰めては体を壊すぞ、少しは休め」
 空虚な労りの言葉。メロスが戻るはずはないと決めつけている王は、翌日に迫る舞台の主役が体調を崩すことを危惧しているらしい。無用な心配だ。今の私には空腹感も喉の渇きもない。疲労を感じず、眠るどころか、休みたいとも思わない。あるのはもどかしさだけ。心の奥底にある偶像を、石の中に埋もれている作品を掘り出すのが遅々として進まない。いらだつ。自らの手で余計な石をかきむしりたいとさえ思う。あと少し。ほんのあと少しで出来上がる。王よ、お願いだ、私の邪魔をしないでくれ。私はメロスに約束した。彼のために石を打ちたいのだ。
 王は威圧的な言動で、あるいは卑屈な声色で、私を石から離れさせようと試みた。妖艶な美女に誘惑させようとさえしたが、私は相手にしなかった。不敬な態度が何だというのだ。明日、メロスは殺される。狂王など相手にしている暇はない。友との約束を守るため、私は石を打たねばならないのだ。
 王は諦めて立ち去り、私は一人残された。
 夜が深まり、石像は完成に近づいた。
『草原を駆けるメロス』

1 2 3 4 5 6