小説

『白雪姫前夜』伊藤なむあひ(『白雪姫』)

 だけど今度も誰も返事をしてくれなかった。俺はいよいよ不安になってきたがそこであることに気が付いた。そう、俺はまだ自己紹介をしていなかったんだ。よく考えたら同じ工場で生まれた家族とはいえ、どこの誰かも分からないような奴にいきなり話しかけられたらそりゃあ誰だって黙るよ。お前だってそうだろう? だから俺はそこにいる皆に聞こえるような大きな声で自己紹介を始めたんだ。それもとびっきり紳士にな。
「みなさん! 初めまして!」
 そこまでは確かな手応えを感じた。そこにいる俺の家族全員の視線が集まるのを感じたんだ。高揚した俺はさらに大きな声で自己紹介を続けた。
「俺の名前は…!」
 そこまで言ったところで俺はすっかり困り果ててしまった。何故かって? 自分を何て紹介していいのか分からなかったんだよ。そう、俺にはシリアルナンバーが無かったんだ。有名デザイナーとやらが手掛けたブランド品のトランクならいざ知らず、俺たちみたいにおんぼろ工場で大量生産されているようなトランクなんかにシリアルナンバーなんてなかったんだ。もちろん俺だけじゃなく他の皆にも無いことは分かる。今ならそう納得出来る。だがそのときはとにかくそれがショックだったんだ。分かるかな、自分の足下が揺らぐ感じさ。俺はその場にいた全員の視線を浴びたまま、悲しみでいっぱいになりながらしゃべるのをやめた。それ以来、俺は今日まで一言もしゃべっていなかった。俺はトランクであることを全うしていたんだ。
 それからほどなくして俺は出荷された。ピカピカの売り場に並べられ、様々な人に見られ、手に取られ、そして買われた。
 最初に俺を買ったのは若い女だった。
 女は毎日夕方に出かけて行き深夜に帰って来た。
 毎日お金のために働いているらしかった。
 女はインコを飼っていた。
 女の口癖は「疲れた」だった。
 女がインコに覚えさせた言葉は「頑張れ」だった。
俺は女に何かしてやりたかった。
 だって考えてもみてくれよ、俺の初めての持ち主なんだぜ? ハッピーでいて欲しいじゃないか。だから俺は女の為にしたいことを考えてみた。
1、女の代わりに働く
2、大金を与える
3、優しく抱きしめてやる
 だけどそれらは全て実現不可能なことだった。だってそうだろう? 何故ならそれらは全て、トランクがすることの領分を越えているからだ。

1 2 3 4 5 6 7 8 9 10