小説

『人魚』末永政和(『月とあざらし』小川未明)

ツギクルバナー

 北方の海に浮かぶ氷山の上に、一人の人魚の姿があった。寒い冬のことであった。空は灰色に染まり、海は銀の波を頻りにぶつからせていた。
 夏の終わり頃から、人魚はここに座り続けているのであった。険しくとがった氷山の頂きは、登るのも困難であったろう。しかしここからなら、海原のすべてを見通すことができるのだった。
 人魚が悲しく歌うのは、かつて船乗りを迷わせたような歌ではなかった。いなくなってしまった子どものために、彼女は朝夕を問わず歌い続けるのであった。そこには邪心も淫心もなく、子を思う親の心だけがあった。
 冬風は容赦なく吹きさらし、彼女に雪のつぶてをぶつけた。凍えそうな寒空の下で、竪琴をつまびく指先はかじかんで、もう使い物にはならなかった。たとえ子どもを見つけたとて、迎えに行くことはできなかっただろう。銀の鱗に覆われた彼女の半身は、もはや氷と一体になっていた。肩や髪の毛にも白雪が降り積もり、彼女を永遠の函に閉じ込めようとするかのようだった。
「どこかで、私のかわいい子どもをお見になりませんでしたか?」
 彼女が暴風に問い掛けるのを、氷山は何度も聞いていた。風のようにこの世界のあらゆるところを自由に移動できたなら、氷山は人魚の願いに応えてやれたかもしれない。月のように世界をくまなく照らせたなら、人魚の子どもを探し出せたかもしれない。しかし彼にできるのは、人魚を乗せて大海原を漂うことだけだった。
 これまで幾度となく、氷山は子をなくした親を、親とはぐれた子を見てきた。人魚と同じように自分のうえで、子を思って泣き続けたあざらしもいた。群れからはぐれた幼いクジラは、悲しみ果てて海の底へと沈んでいった。どのときも、氷山には手を差し伸べることさえできなかった。そのたびごとに、彼の冷たい体には幾筋かの深い亀裂がきざまれていった。

 この海をただよって、どれほどの時がたつだろう。かつて氷山は、北の国と地続きであった。漁師が近くを通ることもあったし、真っ白な毛並みの動物たちが彼の上で戯れることもあった。遠くを見やれば色とりどりの草花が目にうつった。人間たちの善良さも、横暴さも、彼はよく知っていた。
「どこかで、私のかわいい子どもをお見になりませんでしたか?」
 人魚のふるえるような声を聞くたびに、氷山は言いようのない悲しさにとらわれるのだった。子どもはもう、生きてはいないだろう。人魚の子どもは未来を予知する力があると信じる者もいる。人魚の肉を食べると不老不死になると信じる者もいる。人間につかまって殺されていても不思議はないし、たとえ生きていたにせよ、見せ物にされるのがいいところだろう。

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