小説

『咳をしたなら』室市雅則(『咳をしても一人』尾崎放哉)

 すると先ほどの後輩が声をかけてきた。
 「さっきの方って柳田さんのご兄弟ですか?」
 「まあ」
 「凄くそっくり。双子みたかった。弟さんですか?お兄さんですか?」
 「あ、お、弟」
 柳田は言葉を濁して机に戻り、仕事を再開した。

 二時間ほど残業をし、無事に納品をして帰路に着いた。
 週末なので電車の中には一杯ひっかけて愉快そうな会社員が多い。
 混雑していたが、柳田は運良く座席を得ることができ、一日中酷使した目を揉みながら考えた。
 今日、自分の気付かぬ内に何度咳をしたのだろうか。
 家は今頃、どうなっているのだろうか。
 妻がいる時よりも家のことを心配している自分に気が付いた。
 そんな自分が可笑しかった。
 肩に重みを感じた。
 横を見ると若いOLが疲れているのか眠って肩にもたれかかってきた。
 肩を動かして、彼女の体勢をまっすぐにしようと試みるも、振り子のように戻ってくる。
 柳田は音で彼女に気付かそうと咳払いをしようとした。
 しかし、ヤバいと思い出し、半分だけ咳を出した所で止めた。
 慌てて辺りを見渡すも柳田は増えていなかった。
 安心した所で電車が駅で止まった。
 アナウンスが流れ、大勢の乗客が降りて行き、数人だけが乗り込んだ。
 突如、柳田の隣のOLは目を覚まし、駅を素早く確認すると大慌てで立ち上がって駆け出した。
 その時に柳田は足を踏まれたが、OLは気付いた様子もなく、閉まりかけのドアに挟まれそうになりながら飛び降りて行った。
 電車が出発した。
 柳田は踏まれた足が痛く、足元に目をやった。
 革靴のつま先が少し凹んでいる。

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