小説

『咳をしたなら』室市雅則(『咳をしても一人』尾崎放哉)

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 冬。
 柳田は仕事を終え、駅から家に向かって歩いている。
 最寄りの駅から徒歩十五分ほどにある賃貸マンション。
 マンションの全体を見渡せる位置から八階を見る。
 柳田の自宅。
 明かりは灯っていない。
 駅までの十五分に加えて、都内にある会社までの通勤時間は一時間半ほどかかる。
 柳田は通勤時間を一時間以内に収めたかったが、妻の適度に自然のある環境に住みたいという願いを尊重し、このマンションを借りた。
 都会ではないが、住むには事足りる田舎。
 妻は満足してくれているように見えた。
 「ただいま」
 玄関を開けて暗闇で呟いた。
 返事がないのは分かっているが、これを言わなくては帰った気がしなかった。
 コンビニの袋を片手にぶら下げながら鍵を開け、ダイニングに向かう。
 明かりをつけた。
 誰もいない部屋。
 寒くてエアコンをつけた。
 妻はもういなかった。
 結婚生活は二年で破綻をした。
 よくある性格の不一致というやつで離婚をした。
 夫婦だからといって所詮は他人同士なのだから全く同じ価値観を持てるはずはなく、その必要はないと思っていたが、生活の根底に関わる金銭感覚の違いが明らかであった。
 柳田は妻のため、いつかは増えるであろう家族のために仕事に集中し、家計は妻に任せていた。しかし、妻は将来を見据えて貯蓄をするでもなく、倹約をするでもなく、思いつくままに使ってしまっていた。
 一緒に暮らすようになって知ったのだが、妻には浪費癖があったのだ。

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