小説

『咳をしたなら』室市雅則(『咳をしても一人』尾崎放哉)

 交際している時分を思い返せば、同じ服を着ているのをあまり見たことがなかったし、買い物に行っても手早いので『女性とのショッピングは苦』というのは当てはまらず、効率的な女性だなとさえ思っていた。
 それは柳田の勘違いであった。
 ただ単に考えもせずに、思いつくままに買い物をするから早かったのだ。
 柳田は何度も正そうとしたが、妻は変わらなかった。
 「二人の暮らしが良くなると思って」
 妻の言い分はいつもこうだった。
 金を使うことで自分の存在を確かめるような節もあった。
 だから、妻も外に仕事に出ていれば違っていたかもしれない。むしろそれを勧めれば良かったのかもしれない。後悔しても仕方がない。
 離婚をした。
 妻も妻で柳田が仕事ばかりで寂しかったせいと主張してきたが、微塵も聞き入れるつもりはなかった。
 赤ん坊がいなかったのが幸いだった。
 その代わりに、柳田の手元には妻が好き放題に購入した水素水を作るボトルやこびり付きにくいフライパン、高反発マットレスなどが残った。
 妻が出ていった後、引っ越しても良かったのだが、住めば都であったし、引っ越しの作業も面倒だったので、そのまま住み続けた。
 ネクタイを緩め、スーツを脱ぐとそのままシャワーに向かった。
 熱い湯が冷え切った体に染みた。
 毛玉だらけのスウェットに着替え、妻が買ったヤカンに水を入れてコンロにかけた。
 妻はそれを「ケトル」と言っていたが、どう見たってヤカンという方がぴったりくるし、値段が一万円もしたとを聞いた時には呆れて物も言えなかった。
 コンビニの袋からカップラーメンを取り出し、ビニールを剥き、蓋を剥がして、湯が沸くのを待つ。
 野菜も食べ、栄養のバランスを考えなくてはいけないと承知していたが、仕事の後に料理をする余力はなく、かと言って外食での出費も避けたかったので、これが定番となっていた。
 金の節約を試みて、命も短くなってはしょうがないと思ってやり過ごしていた。
 湯が沸くまでの間、一日を締め括るお楽しみの缶ビールを冷蔵庫から取り出す。

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