小説

『咳をしたなら』室市雅則(『咳をしても一人』尾崎放哉)

 そして、よく見ると全員の胸元に『八郎』や『十三郎』と書かれた名札がぶら下がっている。
 『二郎』の名札をつけた二郎が他の柳田の間を縫ってやってきた。
 「おかえり。風呂行くか?飯にするか?」
 妻にも言われたことのない台詞に感銘を受け、柳田が固まった。
 「どうした?どうすんだよ?風呂か飯か」
 「すまん。風呂行く。それ」
 柳田が二郎の名札を指差した。
 「ああ、全員同じ顔だと見分けつかないだろ?」
 笑って二郎が手を伸ばした。
 「何だよ?」
 柳田が尋ねる。
 「スーツ脱げよ。かけとくから」
 柳田はこんな優しさを持っている自分に感動した。
 「ありがとう」
 「ごゆっくり」
 柳田はスーツを二郎に渡し、風呂に向かった。

 湯船に浸かって柳田は考える。
 増え続けるばかりの自分をどうすべきか。
 このマンションではもはや手狭である。
 どこかに大きな家を借りなくてならない。
 しかし、これだけの人数と一緒に暮らすとなると今よりもっと田舎でなくては家賃も賄えないし、そもそもの場所がないだろう。
 そこから今の会社に通うのはきっと無理だ。
 そこまで考えた所で、アイデアが浮かんだ。
 俺たちだけで商売ができるんじゃないか。
 店を持ったりの接客業は同じ顔の人間だけでは怪しまれるからできないとしても、畑で野菜を作ったり、何か工場みたいのを身内、というより自分たちだけで何かできるんじゃないだろうか。
 我ながら面白いアイデアだと思った。

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