小説

『咳をしたなら』室市雅則(『咳をしても一人』尾崎放哉)

 だから、仕事に集中したかったのだが、家に大勢の自分がいることが頭をよぎって、パソコンの前で手が止まり腕組みをして考え込んでしまった。
 咳をすると自分が増えてしまう。
 それは分かった。
 生理現象だから制御は難しいが気をつけなくてはならない。
 何故、こうなったのだろう。
 しかし、もう起きてしまったのだから仕方がない。
 それにしても、これはいつまで続くのだろう。
 咳をするのが躊躇われる。
 じっと考え込んでいると背後で上司が柳田の様子を窺っていることに気付いた。
 組んだ手を解き、誤魔化そうと咳払いをした。
 しまったと思ったが上司がいる手前、平静を装って作業に戻った。
 しかし、もう遅かった。
 恐る恐ると辺りを見渡すとオフィスのドアの向こうに増えた奴が立って手を振っている。
 後輩の女性が驚いた様子で二人の柳田を見比べている。
 慌ててドアへ向かい増えた方を連れ出す柳田。
 「会社には来るなよ」
 「来るなって、あんたが」
 「だからって・・・名前は?」
 「二十二郎」
 「二十二郎・・・。家帰れ」
 「分かった。ごめん」
 申し訳なそうな自分の表情を見るのが切なかった。
 「電車賃あるか?」 
 首を横に振る二十二郎。
 柳田は財布から二千円ほど取り出して、二十二郎に渡した。
 「気を付けて帰れよ」
 「ありがとう」
 二十二郎は帰り、柳田はオフィスに戻った。

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