小説

『咳をしたなら』室市雅則(『咳をしても一人』尾崎放哉)

 驚いて目を開けるとコンロで柳田と同じ毛玉だらけのスウェットの男がフライパンを振るっている。
 「え?」
 柳田が声を出すと男がコンロの火を消し、振り向いた。
 「ちゃんと野菜食べて、栄養のバランス考えないとダメだよ」
 柳田と同じ顔をした男であった。
 「誰だ?お前」
 「俺?」
 自分を指差す男。
 「俺はお前だよ」
 柳田は理解できなかった。
 男がガスを切ってから説明をした。
 「さっき咳をした時に『咳をしても一人なんだなー』とか『誰も声かけてくれなくて、寂しいなー』って思ったろ?」
 柳田が目を白黒させながら返事をした。
 「だから何だよ?」
 「だから俺が生まれたんだよ」
 男は平然としたまま、こびり付かないフライパンから野菜炒めを皿に盛る。
 状況が飲み込めない柳田。
 「ほら、野菜炒め食えよ。こんなもんばかりじゃいかんよ」
 男は皿をテーブルに置き、カップラーメンをどかすと柳田を座らせた。
 「もう一本飲むだろ?」
 缶ビールを取り出し柳田に手渡す男。
 「俺もいただこうっと」
 自分の缶ビールを取り出す男。
 「乾杯」
 男は無邪気な笑顔で柳田に缶を突き出す。
 どう反応して良いか分からず男のペースで物事が進む。
 柳田は何に困っているのか分からないくらいに困っていた。
 しかし、見慣れたその顔に不思議と落ち着き始めた。

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