小説

『まったくなにやってんだ』広瀬厚氏(『浦島太郎』)

 酔った頭を夜風にさらし、自分勝手な調子の良いことを考え歩く俺の目に、橋の上から川面を見下ろす女の姿が映った。
ひと気のない夜の橋の上、何が楽しくて一人、川面を見下ろす? 何か面白いものでも浮かんでいるのか知らん。俺は女を不審に思った。すると次の瞬間、女は橋の欄干に手をかけ越えようとした。
「ちょっとまった!はやまるな」
 とっさに俺の口を出た大声に、女は一瞬こちらを振り返ったが、そのまま欄干を乗り越え川に飛び込もうとする。あわてて俺は女にかけより、背後から手をかけ力一杯こちらに引き戻した。ドテッと女が俺の上にのしかかるようにして、そのまま二人は橋の上に後ろから倒れた。
「イヤッ!離して、死なせてちょうだい」
 女が俺の上でからだをよじらせ叫ぶ。俺は倒れて地面に思い切り打った、尻と背中が非常に痛い。女は俺をクッションにして、ちっとも痛くない。なんだか腹が立つ。いっそこの手を離して、女の希望通りに死なせてやろうか、とも思った。が、
「バカヤロウ!そう簡単に死ぬなんて言うもんじゃない。誰だって大変なんだ。みんな懸命になって生きているんだ」
 と、がらにもなく熱いことを言ってしまった。言ってすぐに恥ずかしくなった。されど一度出た言葉を口に戻すことは出来ない。俺は続けた。
「正直なところ俺だって死にたいと思うことはある。辛いことが沢山ある。と言うか、辛いことばかりだ。げんに今住む部屋をじきに出ていかなければならない。出ていったあと、行くあてもない。金もない。何もない。その先にこれっぽっちの光も見えない。いっそ死んでしまったほうがましだって、ふと思ったりもする。だけどこの世界には、どんなに生きたくとも生きていけない人が大勢いる。だからそう簡単に死んではいけない。ならば生きている限り生きてやるんだって、そう思うんだ。何があったか知らないけれど、君もそうやすやすと自分で自分の命を絶っちゃいけない。死は望まずとも向こうから、平等にやって来るんだ。それをわざわざ自ら早める法はない」
 俺は思わず自分の言葉にプッと吹きそうになった。偉そうに臭いセリフをよくも吐いたものだ。ヤバイ、笑いが込み上げてきた。俺は必死で笑いをこらえた。
 俺の手から逃れようと、からだをよじらせ抵抗していた女が、急に静かになった。そしてしくしく泣きはじめた。覚えず俺が手の力をゆるめると、女はからだの向きを反転させ、俺の胸に顔をうずめ抱きついてきた。
「さびしいよう、さびしいよう」と、女は泣きながらに訴える。

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